ワースィク

アッバース朝第9代カリフ From Wikipedia, the free encyclopedia

アブー・ジャアファル・ハールーン・ブン・ムハンマドアラビア語: أبو جعفر هارون بن محمد, ラテン文字転写: Abū Jaʿfar Hārūn b. Muḥammad, 812年4月18日 - 847年8月10日)、または即位名でアル=ワースィク・ビッラーアラビア語: الواثق بالله, ラテン文字転写: al-Wāthiq biʾllāh,「神を信頼する者」の意)は、第9代のアッバース朝カリフである(在位:842年1月5日 - 847年8月10日)。

死去 847年8月10日
サーマッラー英語版
埋葬 ハールーニー宮殿(サーマッラー)
概要 ワースィク الواثق بالله, 在位 ...
ワースィク
الواثق بالله
アッバース朝第9代カリフ
ヒジュラ暦228年(西暦842/3年)にバグダードで鋳造されたワースィクのディーナール金貨
在位 842年1月5日 - 847年8月10日

出生 812年4月18日
死去 847年8月10日
サーマッラー英語版
埋葬 ハールーニー宮殿(サーマッラー)
配偶者 クルブ
  ファリーダ英語版
  カラム
子女 ムフタディー
王朝 アッバース朝
父親 ムウタスィム
母親 カラーティース英語版
宗教 イスラーム教ムウタズィラ学派
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第8代のカリフで父親のムウタスィムがまだ王子であった頃の812年に生まれたワースィクは、当時のカリフで叔父にあたるマアムーンから教育を受け、その博学さから「小さなマアムーン」の愛称で呼ばれた。842年にムウタスィムが死去するとカリフに即位したが、その短い治世はムウタスィムの政策を継承したものであり、権力はムウタスィムが任命した高位の官僚や軍人たちの手に委ねられていた。ワースィクの在位中の主要な出来事は反乱への対処と鎮圧であり、842年にはシリア、845年にはヒジャーズ、そして846年にはヤマーマ英語版でアラブ部族の反乱が発生し、アルメニア英語版方面でも混乱への対処を強いられた。

主要都市のバグダードにおいても846年にアフマド・アル=フザーイーを首謀者とする反乱が計画されたが、これは事前に政府当局に計画が漏れたことで未遂に終わった。この反乱はワースィクがマアムーンの治世以降政府が公認していたムウタズィラ学派の教義を支持し続け、ミフナ英語版と呼ばれる反対派を取り締まるための異端審問を再開したこととも関連していた。対外的にはビザンツ帝国との紛争が続き、アッバース朝はマウロポタモスの戦い英語版で重要な勝利を収めたものの、845年に行われたビザンツ帝国との捕虜交換以降は一度起こった侵攻を除いて数年にわたり小アジアでの戦いが停止した。

ワースィクは宮廷で享楽的な生活を送る一方で学問に関心を抱き、芸術家たちの活動を支援していたと伝えられているが、同時期の他のアッバース朝のカリフたちと比べるとその人物像は比較的不明瞭である。また、イギリスの作家のウィリアム・トマス・ベックフォードは、ワースィクを主人公のモデルとした小説である『ヴァテック英語版』を著した。ワースィクは847年に浮腫の治療の最中に意識を失って死去し、高官たちの合議によってワースィクの異母弟のムタワッキルが後継のカリフに選ばれた。

出自と初期の経歴

ワースィクは812年4月18日(この他にも811年から813年の間で若干前後する日付を与えている史料もある)に、父親のギリシア人女奴隷の内妻であったカラーティース英語版マッカに向かっていた道中で生まれた。父親はアッバース朝の王子で後にカリフとなったムウタスィム(在位:833年 - 842年)である[1][2]イスム(本名)のハールーンは祖父にあたるかつてのカリフのハールーン・アッ=ラシード(在位:786年 - 809年)にちなんだものであり[3]クンヤについてはアブー・ジャアファルと名乗った[4]

ヒジュラ暦225年(西暦839/40年)に鋳造されたワースィクの父親にあたるムウタスィムのディーナール金貨

ワースィクの若年期について分かっていることは少ない。特に父親は当初は後継者となる見込みのない年少の王子に過ぎず、トルコ人奴隷兵(ギルマーン)からなる精鋭の私兵部隊を築き上げたことで頭角を現し、ついには対抗者を退けてカリフの地位を手に入れたという経緯をたどったため、余計にその子供の状況については不明瞭である[2][5]。史料にはワースィクの最初の教師としてハールーン・ブン・ズィヤードという名の人物が言及されており、ワースィクは叔父にあたるカリフのマアムーン(在位:813年 - 833年)からも直接書道、朗読、そして文学を学んだ[6]。後世の史料はこの頃のワースィクについて、その博学さから「小さなマアムーン」という愛称で呼んでいる[6]

父親のムウタスィムがカリフに即位すると、ムウタスィムは息子であり後継者と目されていたワースィクに対して統治の経験を積めるように配慮した。その一環としてワースィクは、836年にムウタスィムがバグダードの北方に新たな首都であるサーマッラー英語版を建設してそこに移った後にバグダードの統治を委ねられた[2][6]。歴史家のタバリー(923年没)によれば、その後838年にアーザルバーイジャーンで続いていたバーバク・ホッラムディーン英語版の反乱を鎮圧し、サーマッラーに凱旋してきた将軍のアフシーン英語版を儀礼的に出迎えるために派遣され[2]、同年に行われたビザンツ帝国アモリオンへの遠征の際には父親の代理として本国に留まった[6]

その後、841年にワースィクは失脚して投獄されていたアフシーンに果物の盛られた鉢を差し入れた人物として史料に言及されている。この時アフシーンは果物に毒が盛られているのではないかと疑い、鉢を受け取ることを拒み、カリフに伝言を届けるために別の人物を遣わすように要求した[2]。サーマッラーにおけるワースィクの住居は父親の宮殿に隣接しており、ワースィクは宮廷において常にその姿を目にする存在であった[2]。歴史家のジョン・ターナーが指摘しているように、これらの記録はワースィクが「父親の信頼する代理人としての役割を担っており、そのことによって権力の座を引き継ぐための好位置」にいたことを示している[2]。その一方でワースィクは一度も軍事指揮権を与えられず、アモリオンへの遠征にも参加しなかった。これはそれまでのアッバース朝の慣例とは大きく異なるものであった[2]

治世

タバリーはワースィクの容姿について、「中背で端正な顔立ちと頑丈な体格をしていた。肌は色白で顔は血色が良く、これは一般に高貴な血筋であることを連想させた。また、左目は麻痺していて白っぽい染みがあり、そのためワースィクの眼差しは険しい表情で凝視するかのような印象を与えていた」と記している[7]。842年1月5日に父親のムウタスィムが死去すると、ワースィクは異論を挟まれることなくカリフの地位を継承した[8][9]。ターナーはワースィクの継承について、ワースィクが正式に後継者に指名されていたことを示す史料はないものの、スムーズに継承が行われたことを考慮すると、ムウタスィムの生前に指名を受けていた可能性は高いと述べている[9]。即位時には十分な富を蓄えていた国庫を継承したワースィクは、特にバグダードとイスラームの聖地であるマッカとマディーナにおいて一般民衆に惜しみなく富を分配した[6]。また、842年には弟のジャアファル(後にカリフとなるムタワッキル)を付き添わせる形で母親のカラーティースにハッジの巡礼団を先導させた。しかし、カラーティースは842年8月16日にその道中のヒーラで死去し、クーファの町に埋葬された[10]

政権の支配者層

836年から892年にかけてアッバース朝の首都であったティグリス川沿いに位置するサーマッラー英語版の20世紀初頭の空撮写真。下部に写っているのはサーマッラーの大モスクマルウィーヤ・ミナレット

ワースィクの治世におけるアッバース朝政府はトルコ人の将軍のイーターフ・アル=ハザリー英語版ワスィーフ・アッ=トゥルキー英語版アブー・ジャアファル・アシナース英語版ワズィール(宰相)のイブン・ザイヤート英語版、そしてカーディー(イスラームにおける裁判官)の長官のアフマド・ブン・アビー・ドゥアード英語版といったムウタスィムが権力の座に引き上げた人々によって運営されていた。その一方でワースィクの治世は短く、実質的にムウタスィムの治世の延長と呼べるものだった[8][11][12]。これらの人物はムウタスィムに個人的に忠誠を誓っていたが、ワースィクに対しても同様の結びつきを持っていたわけではなかった。ターナーは、実際にこの限られた集団が「権力の要所を支配し、それによってカリフの自立を抑え込んでいた」と述べている[13]

ワースィクは843年の6月か7月にアシナースに対し王冠を授け、 サーマッラーからマグリブに至る広大な西方諸州に対する支配権を付与したが、この行為はカリフと最も有力な将軍の間の連携を固めることを意図していたとみられている。また、15世紀のエジプトの学者であるスユーティー英語版(1505年没)は、この行為について、カリフが臣下に王権(スルターン)を委任した最初の事例だとみなしている[13][14][15]。そのアシナースは844年に死去し、イーターフが軍の最高司令官の地位と西方諸州の総督職を継承した[16][17]。さらに、新しいカリフはサーマッラーで大規模な建設事業に着手し、その結果カリフの居住地はその需要に見合った市場と港を備えた本格的な都市へと大きく発展した。これはサーマッラーを住民にとってより住みやすい場所にしただけでなく、同地の不動産への投資を経済的に魅力的なものにした。これらの開発はムウタスィムによって新都への移住を余儀なくされていたアッバース朝の支配者層と軍部にとっても強く必要とされていたものだった[18]

その一方でワースィクは843年か844年に中央政府の何人かの書記官を拘束し、拷問にかけ、多額の罰金を課した。タバリーによれば、これはトルコ人軍団に支払われる俸給の資金を調達するための措置であったが、同時に文官と軍人の有力者層を互いに反目させようとしていたか、あるいはこれらの書記官のほとんどがアシナースやイーターフのようなトルコ人将軍に仕えていたことから、これらのトルコ人将軍たちの権力を弱めることを意図していた可能性もある。また、タバリーはこのカリフの行動について、かつてハールーン・アッ=ラシードの治世に権勢を振るっていたバルマク家英語版が突如として失脚を強いられた先例に触発されたものだと伝えているが、他の記録ではワズィールのイブン・ザイヤートがカリフを唆したためだとも伝えられている[19][20]

反乱への対処と鎮圧

850年頃のアッバース朝の領域を示した地図。西方のアグラブ朝や北東のトランスオクシアナ(マー・ワラー・アンナフル)などの薄緑色の領域はアッバース朝の宗主権下にある自立政権の支配地を示している。

ムウタスィムの治世の最後の数か月間にパレスチナではムバルカア英語版という名の人物の下で大規模な反乱が勃発していた。ムウタスィムはこの反乱に対処するために将軍のラジャーア・ブン・アイユーブ・アル=ヒダーリーを派遣した[21][22]。さらに、ワースィクの即位後にはダマスクスの周辺でイブン・バイハスを指導者とするカイス族英語版の反乱が起きた。ワースィクはこれを受けてラジャーアをイブン・バイハスと戦わせるために現地に向かわせた[6][22]。このカイス族の反乱とムバルカアの反乱の間の正確な関連性は不明である[22]。ラジャーアはカイス族の部族民の間の不和に乗じて素早くイブン・バイハスを破り、その後南下してラムラの近郊でムバルカアの軍勢と対決した。アッバース朝軍はこの戦いで決定的な勝利を収め、捕虜となったムバルカアはサーマッラーに連行されて投獄されたが、その後のムバルカアの消息については不明である[6][22][23]

また、ワースィクは即位すると当時不安定な状況にあったアルメニア英語版の総督にハーリド・ブン・ヤズィード・アッ=シャイバーニー英語版を任命した。そのハーリドは大軍を率い、反抗的な態度を示していた現地のイスラーム教徒とキリスト教徒の諸侯たちをカワケルトの戦いで打ち破った。ハーリドはその後まもなく死去したが、息子のムハンマド・アッ=シャイバーニーが後任となって父親の任務を引き継いだ[6][24]

845年の春にはヒジャーズアラビア半島西部)において部族民による新たな反乱が勃発した。アラブ部族の一つであるスライム族英語版がマディーナ周辺のキナーナ族英語版バーヒラ族英語版との紛争に巻き込まれ、その結果845年の2月から3月にかけて流血を伴う衝突に発展した。現地の総督のムハンマド・ブン・サーリフ・ブン・アッバースは常備軍とマディーナの市民からなる軍隊を派遣したが、スライム族が勝利を収め、マッカとマディーナの二つの聖都の周辺地域で略奪を始めた。これを受けてワースィクは5月に配下のトルコ人の将軍の一人であるブガー・アル=カビール英語版にこの事態の収拾を命じた。ブガーはシャーキリーヤ英語版[注 1]、トルコ人、およびマガーリバ英語版[注 2]の各近衛連隊からなる常備軍を率いてスライム族を撃破し、スライム族は降伏を余儀なくされた。さらに、同年の初秋にはヒラール族も服従させることに成功した[6][27][28]。ブガーの軍隊は総数でおよそ1,300人に及んだ捕虜を連行し、マディーナで収容した。その後、これらの捕虜たちは脱走を試みたものの、マディーナの住民によって阻止され、その過程で大半が殺害された。その一方でブガーはこの機会を利用して同地域における他のベドウィンの部族に対する威嚇行動に乗り出し、ファザーラ族英語版ムッラ族英語版と対決するため進軍した。これらの部族はブガーの進軍を前にして逃亡したが、その多くは最終的に服従し、残りは現代のヨルダンに位置するバルカー英語版へ逃れた。その後、ブガーはキラーブ族英語版を制圧し、846年5月におよそ1,300人のキラーブ族の捕虜を連れてマディーナに戻った[6][29]

845年から846年にかけてディヤール・ラビーア英語版ジャズィーラ東部)においてムハンマド・ブン・アブドゥッラー・アッ=サアラビー(あるいはムハンマド・ブン・アムルの名でも伝えられている)を指導者とするハワーリジュ派の小規模な反乱が起こったが、モースルの総督の手によってほとんど労せずに鎮圧された[6][30]。同じ年に将軍のワスィーフ・アッ=トゥルキーはイスファハーンジバール英語版、およびファールスにおいて反抗的な態度を示していたクルド人の部族を制圧した[6][31]

ワースィクは846年9月にヤマーマ英語版(アラビア半島中央部)で起こっていたヌマイル族英語版の略奪行為を阻止するためにブガー・アル=カビールを派遣した。ブガーは847年2月4日にバトン・アッ=スィッルの名で知られていた土地の水場においておよそ3,000人のヌマイル族と大規模な戦闘を繰り広げた。当初は苦戦を強いられ、その軍勢はほとんど崩壊寸前という状況まで追い込まれた。しかし、ヌマイル族の馬を盗み出すために派遣されていた一部の部隊が戻り、ブガーを攻撃していた敵軍を襲ってこれを完全に撃破した。ある記録によれば、この戦闘で最大1,500人のヌマイル族が戦死した。ブガーは数か月をかけて地域内の平定に当たり、服従した者には安全な通行を許可する令状を発行する一方で、そうでない者には攻撃を続けた。その後、ブガーはさまざまな部族に属していた2,200人を超えるベドウィンの捕虜とともに847年の6月か7月にバスラに帰還した[6][32]

宗教政策とバグダードにおける反乱未遂

イスラームの思想面に関してワースィクは父親のムウタスィムと同様にムウタズィラ学派を熱心に支持していた。いくつかの史料においてワースィクはカーディーの長官であるアフマド・ブン・アビー・ドゥアードの影響を強く受けていたと伝えられているが、その一方で父親と同様にアリー家英語版[注 3]との良好な関係も維持していた[3][20][35]。ムウタズィラ学派はその神学上の教義において、クルアーンは永続的な存在ではなくある時点で創造されたものであり(クルアーン被造物説英語版)、それ故に神によって導かれるイマームが時間とともに変化する状況に応じてクルアーンを解釈する権限を有するという考えを取り入れていた。このようなムウタズィラ学派の教義はイマームとしてのカリフの言葉に神権的な力を付与し、カリフの権力を強化することが期待できる性格を有していた[36]

カリフとなってから3年目にワースィクはマアムーンが開始したミフナ英語版と呼ばれるイスラームの異端審問を再開させ、役人を派遣してクルアーンの被造性という当時論争の的となっていた問題について法学者たちにその見解を問い質した[37]。845年にビザンツ帝国との間で行われた捕虜交換(詳細は後述)の時でさえ、身代金を支払われて解放されたイスラーム教徒の捕虜たちに対してこの問題に関する意見が問われ、意に沿わない回答をした者は捕虜のまま残されたと伝えられている[37][38]。当時ムウタズィラ学派の教義に反発していたハンバル法学派の創始者であるイブン・ハンバルは自身が行なっていた講義の停止を余儀なくされ、その後ワースィクが死去するまで活動を再開することができなかった[37]

8世紀後半から10世紀初頭にかけてのバグダードの地図

846年にアッバース朝革命における初期の活動家の一人の子孫であり、当時広く尊敬されていた名士であるアフマド・ブン・ナスル・ブン・マーリク・アル=フザーイーが、ワースィクとその配下のトルコ人将軍たちとムウタズィラ学派の教義の打倒を目標とする陰謀をバグダードで計画した[39][40]。アフマドは多くの著名なハディース学者と親交があり、これらの学者たちからクルアーンの被造性を認めないように促されていた[40]。資金力のあった二人のアフマドの支持者が計画に賛同する民衆に金を配り、蜂起の日時を846年4月4日から5日にかけての夜に定めた。しかしながら、タバリーによれば、蜂起の合図として太鼓を鳴らすはずだった者たちが酔っ払ってしまい、誤って予定より1日早く太鼓を鳴らしたために何の反応も起きなかった[39][41]。一方で別の歴史家であるアル=ハティーブ・アル=バグダーディー英語版は、単に密告者が当局に陰謀を漏らしたとだけ伝えている[40]。この事件の当時、バグダードの警察長官(サーヒブ・アッ=シュルタ英語版)であったイスハーク・ブン・イブラーヒーム・アル=ムスアビー英語版が不在だったため、イスハークの兄弟のムハンマド英語版が代わりにこの不穏な事態を調査し、その結果この陰謀が明るみに出た。アフマドとその支持者たちは逮捕され、サーマッラーのワースィクの面前に引き出された[42]

ワースィクは公の場でアフマドを尋問したが、その内容は実際の反乱に関することというよりは、クルアーンの被造性という厄介な神学上の問題に重点が置かれていた。この尋問におけるアフマドの答弁はワースィクを激怒させ、カリフはイスラーム以前の時代から伝わる名剣である「アッ=サムサーマ」を手に取り、トルコ人の将軍のブガー・アッ=シャラービー英語版とスィーマー・アル=ディマシュキーの助けを借りながら自らの手でアフマドを処刑した。アフマドの遺体はバーバク・ホッラムディーンの処刑が行われた絞首台の隣に晒され、その他の20名のアフマドの支持者たちも投獄された[43][44][45]。スユーティーはワースィクが後にこの処刑を後悔し、ミフナの慣習を終わらせたとする記録を残しているが[37][46]、ターナーやタイエブ・エル=ヒブリーなどの現代の歴史家は、この説明がアフマドの処刑に対するワースィクの責任を免除しようとする後世の歴史家による創作である可能性を指摘している[47]

国庫の盗難事件

845年か846年にはサーマッラーの国庫(バイト・アル=マール)で盗難事件が発生した。犯人たちは42,000ディルハムの銀貨と少量のディーナール金貨を奪って逃走したが、サーマッラーの警察長官でイーターフの副官でもあったヤズィード・ブン・アブドゥッラー・アル=フルワーニー英語版が犯人たちを追跡して捕らえた[48]。ターナーはこの事件について、当時は宮殿の主要部でさえ警備が緩く、盗まれた貨幣の総額もそれほど多額ではなかったことから、当時の国庫の資金がすでに逼迫していたことは明らかであり、一般に考えられているほどこの時期のサーマッラーの状況は安定していなかったことを示すものだと述べている[49]

ビザンツ帝国との戦い

842年頃の小アジアビザンツ帝国の領土とアッバース朝との国境地帯を示した地図

先代のカリフのムウタスィムはアッバース朝の長年にわたる宿敵であるビザンツ帝国に対し838年にアモリオンの破壊という重要な戦果を上げた[50][51]。しかし、この成功を継続することはできず、戦況は国境沿いにおいて頻繁に見られていた襲撃と反撃の応酬へと戻った。ビザンツ側の記録によれば、842年にムウタスィムが死去した当時、ムウタスィムはさらなる大規模な侵攻を計画していたが、コンスタンティノープルの攻略のために準備していた大艦隊がムウタスィムの死の数か月後にケリドニア岬英語版沖で嵐に遭い壊滅した[52]。ただし、イスラーム教徒による史料にこのような海軍の動向に関する記録は見られない[37]

ムウタスィムの死後に当時ビザンツ帝国の摂政であったテオクティストス英語版がアッバース朝に臣従していたクレタ島イスラーム政権から島を奪還するべく艦隊を率いて遠征に乗り出し、一時は島の占領に成功したものの、最終的には撤退を余儀なくされた[53][54]。844年にはビザンツ帝国との国境地帯に位置していたカーリーカラータルスースアミール領の軍勢(恐らくこの他にもマラティヤのアミールのウマル・アル=アクタ英語版も参加していたとみられる)がアブー・サイード・ムハンマド・ブン・ユースフの指揮下でビザンツ帝国領の小アジアの深部を襲撃し、ボスフォラス海峡を見渡す海岸まで到達した。その後、アラブ人の軍勢はビザンツ帝国の高官たちの背信行為にも助けられ、マウロポタモスの戦い英語版でテオクティストスを破った[55]。また、ほぼ同じ頃にビザンツ帝国で異端として迫害されていたパウロ派が指導者のカルベアス英語版の下でアラブ側へ離反した。パウロ派はアッバース朝とビザンツ帝国の国境地帯にテフリケ英語版の要塞を中心とする小規模な政権を築き、以後はアラブ軍によるビザンツ帝国の領内への襲撃に加わった[56][57][58]

アモリオンで捕虜となって連行されていたビザンツ帝国の42人の高官英語版がイスラームへの改宗を拒否したために845年3月にサーマッラーで処刑された[58][59][60]。その一方で捕虜交換の交渉のために同年にビザンツ帝国の使節団がカリフの宮廷に到着した。交渉は9月にヤーザマーン・アル=ハーディム英語版の主宰の下で行われ、およそ3,500人から4,600人のイスラーム教徒が身代金を支払われて解放された[61][62]。捕虜交換を行うために取り決められていた休戦期間が終了すると、タルスースのアッバース朝の総督であるアフマド・ブン・サイード・ブン・サルムが7,000人の兵を率いて冬季に襲撃を行ったが、この軍事作戦は失敗に終わり、500人が凍死あるいは溺死し、200人が捕虜となった[63][64]。その後、アッバース朝とビザンツ帝国の国境地帯は6年にわたり平穏を維持した[63]。ビザンツ帝国に対する征服活動はより西方においてのみ進行し、アッバース朝の宗主権下にあった北アフリカアグラブ朝がビザンツ帝国領のシチリア段階的に征服英語版していった。そのアグラブ朝は842/3年にメッシーナ、845年にモーディカ、846年にレオンティーニを攻略し[65]、845/6年にはイタリア本土のナポリの近郊に位置するミゼーノを占領した。さらに846年にはアグラブ朝の船がテヴェレ川に現れ、乗組員たちがローマの近郊を襲撃英語版した[66]

死と後継者

ワースィクの死の様子が描かれているムガル帝国で著された歴史書の『ターリーフ・イ・アルフィー英語版』の細密画(1594年)

ワースィクは847年8月10日に恐らく肝障害あるいは糖尿病を原因とする浮腫を治療するために熱した場所に座っていた最中に意識を失って死去した[37][44][67]。死亡時の年齢についてはいくつかの史料においてヒジュラ暦で32歳、34歳、あるいは36歳といった年齢が与えられている[3]。ワースィクの遺体はワースィク自身が建設していたサーマッラーのハールーニー宮殿に埋葬された[13][37]

9世紀の歴史家のヤアクービー(897/8年没)は、誰であるかは不明なものの少なくともワースィクの後継者はすでに指名されており、その人物に忠誠の誓い(バイア英語版)も行われていたと説明しているが、ターナーは明らかにそれが守られることはなかったと述べている[68]。結局、ワズィールのイブン・ザイヤート、カーディーの長官のアフマド・ブン・アビー・ドゥアード、トルコ人の将軍のイーターフとワスィーフ、そしてその他の数名からなる主要な高官たちが集まり、後継者を決めることになった。最初にイブン・ザイヤートがワースィクの息子のムハンマド(後のカリフのムフタディー)を推挙したが、当時はまだ若すぎたために却下され、代わりに当時26歳でワースィクの異母弟にあたるジャアファルを選出した。そのジャアファルはムタワッキル(在位:847年 - 861年)の即位名を名乗り、カリフに即位した[69][70]

この人選について、一般に歴史家たちは意思が弱く操りやすい人物をカリフに据えることで、ワースィクの時代と同様に同じ官僚と軍人の有力者集団が実権を握り続けることを意図していたと考えている[68][71]。実際に即位前のムタワッキルはこれらの高官たちに従順に振る舞うであろうと思わせる態度を示していた[68]。しかしながら、ムタワッキルは即位後すぐに自らの権威を確立する行動に乗り出し、2年足らずのうちにイブン・ザイヤートとイーターフを排除することに成功したため、実権を手にしていた高官たちにとってムタワッキルを擁立する判断が誤りであったことは早々に明らかとなった[17]

人物と遺産

ワースィクは聖地のマッカとマディーナの貧しい人々に対して惜しみなく支援し[3]、海上貿易にかかる税金も減免したと伝えられているが[37]、生前に高い人気を得ていたわけではなかった[3]。ワースィクの性格に関する伝承によれば、ワースィクは温厚な人物であったが[37]、怠惰で享楽的な宮廷生活を送る傾向にあり、酔っ払って眠り込んでしまうことさえあった[72]。その一方で優れた詩人(今日まで伝えられている詩の数は他のどのアッバース朝のカリフよりも多い)であると同時に熟練した作曲家でもあり、ウードを巧みに演奏することができた[37]。また、詩人や歌手、そして音楽家たちのパトロンとしてこれらの芸術家たちを宮殿に招き入れていた[37]。ワースィクは特に音楽家のイスハーク・アル=マウシリー英語版、歌手のムハーリク英語版、そしてアル=ハリー(「放蕩者」を意味する)の呼び名で知られる詩人のダッハーク・アル=バーヒリーを寵愛した[3][37]

ワースィクを主人公のモデルにしたウィリアム・トマス・ベックフォードの小説である『ヴァテック英語版』の挿絵。登場人物の一人がヴァテックの怒りに微動すらせずに耐え、廷臣たちは顔を地面に付けてひれ伏している。

このような説明とは対照的に、10世紀の歴史家のマスウーディー(956年没)は、ワースィクを「科学に関連した学問に興味を持ち、医師たちの間での議論を促した」人物として描写している[2]。ワースィクの治世下においてもギリシア語文献のアラビア語への翻訳活動英語版は盛んに行われており[37]、いくつかの史料にはワースィク自身の「知的好奇心」を示すエピソードも残されている。特に自身の宗教的権威を高めることにつながる問題に対しては強い関心を示していた。伝えられるところによれば、ワースィクは「ズー・ル=カルナイン英語版の防壁[注 4]」が破られたという夢を見たため(これは恐らく中央アジアトルコ系遊牧民の間で当時大規模な人口移動を引き起こしていた堅昆の動向の知らせに影響を受けていた)、通訳者のサッラーム・アッ=タルジュマーンを現地へ派遣して状況を調査させた。同様にペルシアの地理学者のイブン・フルダーズベによれば、ワースィクは天文学者のフワーリズミーをビザンツ帝国へ派遣し、エフェソスの「七人の眠り聖人」の伝説を調査させた[3][74]

ワースィクはアッバース朝の歴代のカリフの中でも特に知られていない人物の一人である。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ英語版はワースィクについて、「同時代の他のどのカリフよりも歴史的な足跡に乏しく、そのためはっきりとした人物像を見出すことは不可能である」と述べている[75]。一方で『イスラーム百科事典』は、「ワースィクには偉大な統治者としての資質がなく、その短い治世も特筆すべき出来事によって特徴づけられるものではなかった」と記している[3]イギリスの作家のウィリアム・トマス・ベックフォードは、ワースィクが一般には無名な存在であることを生かし、18世紀の古典的なゴシック小説である『ヴァテック英語版』(題名はワースィクをモデルとした主人公の名前である)においてワースィクを大幅に脚色した姿で描いた。ケネディはこの作品について、「残忍さ、放蕩、そしてイブリース、あるいはシャイターンによって守られた古代の王たちの失われた財宝を探し求める旅を描いた空想的な物語」と呼んでいる[8]

家族

ワースィクには何人かの内妻がいたが、その中の一人にギリシア人のクルブがいた[76]。そのクルブは833年にワースィクの息子で後にムフタディーの即位名でカリフとなるムハンマドを産んだ[77]。もう一人の内妻はファリーダ英語版という名の歌手であり、ワースィクが死去すると音楽家のアムル・ブン・バーナがファリーダをカリフのムタワッキルに紹介した。ムタワッキルはファリーダと結婚し、ファリーダはムタワッキルのお気に入りの一人となった[78]。ファリーダの侍女の一人もワースィクの内妻となり、ワースィクはこの女性に夢中であったと伝えられている[79]。ワースィクには他にもカラムという名の内妻がいたが、そのカラムは元々サーリフ・ブン・アブドゥルワッハーブという名の人物の女奴隷だった者であり、そのサーリフによって歌手として育てられていた。ワースィクはカラムを5,000ディーナールで購入し、イグティバート(「喜び」を意味する)と名付けた[80]

脚注

参考文献

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