ヴァランタン・エステラジー

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エステラジー伯爵、1765年頃

ヴァランタン=ラディスラス・デステラジー伯爵Valentin-Ladislas, comte d'Esterházy1740年10月22日 ル・ヴィガン - 1805年7月23日 ホロドク英語版)は、ブルボン朝末期フランスの宮廷貴族・軍人。伯爵。王妃マリー・アントワネットの取り巻きの1人。

出自と初期の経歴

1740年ラングドック地方ル・ヴィガンで誕生[1]ヴァランタン=ジョゼフ・エステラジーハンガリー語版伯爵(1705年 - 1743年)とその妻フィリッピーヌ・ド・ヌーガレード・ド・ラ・ガルド(1718年 -1792年)の間の長男[2]。父方祖父エステルハージ・アンタルハンガリー語版伯爵はエステルハージ家の成員で、ハンガリー副王も務めた初代エステルハージ・デ・ガランタ公エステルハージ・パールの甥であったが、反ハプスブルク独立戦争を率いたトランシルヴァニア公ラーコーツィ・フェレンツ2世の盟友として反乱軍の将軍となり、最後はラーコーツィとともに亡命先オスマン帝国黒海海域で客死した。しかし息子のヴァランタン=ジョゼフは、ラーコーツィのもう一人の盟友ベルチェーニ・ミクローシュ英語版の息子でフランス陸軍に入隊したラディスラス・イニャス・ド・ベルシュニー英語版伯爵の庇護下に入り、ベルシュニーが組織したラーコーツィ派亡命ハンガリー人の連隊の士官となった[3]。1735年にはジョゼフ自身がエステラジー驃騎兵連隊(régiment Hussards-Esterhazy)の連隊長となった[4]。そして駐屯先ラングドック地方のボーケールを旅した際に知り合った地元の貧窮した軍人貴族の娘フィリッピーヌと結婚し[5]、一男一女をもうけた。

ジョゼフはオーストリア継承戦争中の1743年、デッティンゲンの戦いに参加した際に負傷してアルザスで亡くなった[6]。残された妻子は貧窮を極め、未亡人フィリッピーヌはヴェルサイユ宮廷に嘆願に赴くが、亡夫の年金3000フランを受け取りたいとの要望は額面通りは聞き入れられず、その半額分しか支給されなかった。フィリッピーヌは息子ヴァランタンを亡夫の恩人ベルシュニー伯に託した。ベルシュニーはヴァランタンを養子同然に扱い、自ら教育し、自分の連隊の士官に取り立てた[7]

軍歴と栄誉

ヴァランタン・エステラジーは11歳でベルシュニーの連隊の予備役中尉(lieutenant réformé)となり、1756年大尉に昇進した。七年戦争に従軍し、ドイツでの戦闘に参加した。1761年には、21歳で陸軍中佐に昇進した[8][9]。1764年には、父ジョゼフの連隊の指揮権を世襲相続できなかったことに対する補償的措置が認められ、自身のエステラジー驃騎兵連隊(régiment Hussards-Esterhazy)を組織・所有することが認められると同時に、同連隊を率いるものとして陸軍大佐への昇進を認められた[10]

1775年、小麦粉戦争英語版とよばれる民衆騒擾が発生すると、エステラジーはブリー州において自身の連隊に結集命令を出し、事態の鎮静化に努めた。1780年、陸軍少将に昇進し、翌1781年にはロクロワの守備隊司令官に任じられた[11]。そしてエノー伯領守備隊の副司令官にも就いた[12]。1787年には、国王によって軍事枢密会議の8人のメンバーの1人に選任された。1784年、聖霊勲章英語版及び聖ルイ勲章フランス語版を授与された[13][14]

王妃の友人

エステラジーは1770年、王太子ルイ=オーギュスト(ルイ16世)の婚約者となったマリー・アントワネットに、王太子の肖像画を届ける役目を与えられ、ウィーン宮廷を訪れた際に未来の王妃と初めて出会った[15]。4年後の1774年、エステラジーはフランスに輿入れした新王太子妃マリー・アントワネットに近づこうと、王太子妃の母親である皇后マリア・テレジアに自身の推薦状を出してほしいと嘆願した。皇后はこれを拒んだが、駐仏オーストリア大使メルシー伯爵に、エステラジーを王太子妃に紹介するよう命令し、王太子妃は4年前に未来の夫君の肖像画を持ってきた将校の姿を見ると「大変喜んで」、彼を庇護するようになった[16]

エルネスト・ドーデ英語版によれば、マリー・アントワネットは「公然と彼を贔屓し、彼[エステラジー]を敵対者たちから守ってやり、彼を国王に売り込み、国王が彼を好きになるよう仕向け、借金まみれの彼のために、結婚時には600ルイ英語版を贈与し、いくつかの重要な役職をも授けた。一言でいえば、王妃は彼の立身出世のためにできる限りのことをしてくれたのであり、彼もこれに恩義を感じて、生真面目な性分も手伝って、不幸な女主人のために献身しようと発奮した[17]」。しかし、王妃の母のマリア・テレジア皇后は、エステラジーがハプスブルク家に反旗を翻した者の孫息子だということで彼とその家族を決して許さなかった。皇后は娘の王妃がエステラジーと手紙を交わし合う仲だと知って衝撃を受け、「ちびのエステラジーなどと手紙をやり取りするなど、極めて恥ずべき行いですよ」と娘を叱責した[18]。1778年、マリー・アントワネットが待望の第一子を懐妊したという知らせをウィーン宮廷の母皇后に伝える役目にエステラジーが選ばれたと知ると、皇后は娘に次のように伝えた、「そのような素晴らしい知らせをこちらにもたらす大役にエステラジーを選ぶなどもってのほかです。彼の家[分家]は[伯爵家の中でも高級貴族に属する家が持つ]伯家の殿下ドイツ語版の敬称すら持っていないし、[ウィーン宮廷では]いまだに亡命者扱いです[19]」。

1779年4月、王妃が麻疹の療養のため一時宮廷を離れ小トリアノン宮殿に滞在した際、エステラジーはルイ16世の公認のもと王妃を同宮殿にて世話する4人の貴族男性の1人に選ばれた。この滞在はヴェルサイユ宮廷において、王妃が小トリアノンで彼ら4人の貴族男性たちと乱交に耽っていたという「悪意ある噂話」を生じさせ、マリー・アントワネットがその後死ぬまで悩まされる性的中傷の発生原因の一つとなった[20][21]。1784年、自身の結婚に際し、エステラジーは王妃から年額1万2000リーブルの年金受給資格を授けられた[22]。1791年、王妃のテュイルリー宮殿での「虜囚生活」が始まると、エステラジーは王妃の手紙や贈り物を共通の友人であるアクセル・フォン・フェルセンのもとへ送り届ける役目を買って出た[23][24]

革命

フランス革命が勃発すると、エステラジーはヴァランシエンヌの治安維持を任された。彼は国民の憎悪を受ける王の末弟アルトワ伯(シャルル10世)を様々な形で手助けし、アルトワ伯が1789年7月18日に変装してフランドルへ国外脱出した際には、自身の連隊の騎兵の一団に伯を警護させた[25]。エステラジーはさらにアルトワ伯の2人の子息アングレーム公爵及びベリー公爵、別の王族コンデ公とその子息ブルボン公爵の国外脱出を手助けした[26]

エステラジーの王党派としての様々な工作活動は人々に広く知れ渡り、国民議会が彼を名指しで非難する事態となった。『ジュルナル・デ・レヴォリュシオン・ド・パリ(Journal des révolutions de Paris)』という雑誌は、エステラジーが「敵に小麦を与えようとしている[利敵行為を働いている]」と非難した。エステラジーは自身の潔白を主張する書簡を複数公表したが、そのうちの一通は1789年10月、ル・ケノワ英語版の町の行政委員会によって書かれたもので、町が属するエノー地方一帯ではエステラジーの働きにより秩序と平和が保たれ、食料供給も保障されていると報告している[27]。しかし彼の連隊の兵士たちはエステラジーに反抗し、彼に迫って駐屯命令を解除させる指令を出させた。連隊を失った彼はまずパリに戻り、自身の家族をイギリスへ亡命させる手はずを整えた。エステラジーはまた、ルイ16世をテュイルリー宮殿から脱出させて王党派軍の保護下におくという、実現の不可能な陰謀にも加わった[28]

ロシアでの晩年

1791年、エステラジーはフランスを出国しドイツ・コブレンツに住むアルトワ伯の元に伺候した[29]。そのままアルトワ伯に従ってウィーンに赴き、同年8月、伯の代理人として反革命的なピルニッツ宣言をオーストリア及びプロイセンの共同声明として出させるための外交交渉を成功させ、伯の信頼を得た。同年9月、亡命王族たちの大使としてロシアのサンクトペテルブルク宮廷に派遣された[30][31]。すぐにロシア女帝エカテリーナ2世の信頼を得て、1795年にはポーランドのウカ(Łuka)という村落を所領として下賜された。女帝はまた1793年、エステラジーの7歳の息子にロシア陸軍の騎兵隊少尉の階級を与えた[32]

しかし女帝の死後に帝位に就いたパーヴェル1世帝は、ウカの所領をエステラジーから取り上げ、前の所有者に返還した。そしてロシア宮廷におけるエステラジーの大使としての待遇をも取り消した[33]。しかし何でも母親と反対のことをしたがるパーヴェル帝も、さすがにエステラジーをロシアから立ち退かせることまではせず、ヴォルィーニ地方のホロドク城英語版とその付属所領を代わりに与えた[34]。エステラジーはずっと以前にパーヴェル1世との親交を拒絶したことがあり、そのことが原因で新帝の好意を得られないことを悟った。彼はプロヴァンス伯(ルイ18世)に宛てて次のようにしたためた:

「あの方[パーヴェル1世帝]が1792年にご一緒した際に何度も親切にしてくださいましたのに、その後の私の態度のせいであの方にショックを与えてしまいましたことは、少なくとも覚えております。あの方の御母君[エカテリーナ2世女帝]のお立場を守るために、あの方を拒絶し断交してしまいました。しかし、当時の私のおかれた状況は大変に微妙なものだったのでございます。女帝とそのご子息は実の親子ながら分かり合えるところがほぼない、ということは誰の目にも明らかでした。誰も頼れる人を持たない、ましてや外国人の私が、そのご双方ともと仲良くしつづける方法など、どこにありましょうか?覚悟を決めてどちらか一方の信頼を失う必要がどうしてもあり、その選択をためらう余地もない、と思ったのです。そこで私は大公[即位前のパーヴェル]に少し冷たく接することで距離を作り、他の大半の宮廷人たちと同じように、あの方の地位に対しての敬意のほかは、何の親愛の情もないのだと態度で示すようにしました。この態度であの方は気分を害されたようです。そしてご親切な態度を取るのをおやめになり、話しかけることもなさらなくなりました。しかしそれでも、女帝が私にお示しくださった数々の御親切や御厚情、信頼を無下にしたと思われるよりは、その方がましだったのです[35]

エステラジーはホロドクの城で1805年に亡くなった[36]

家族

参考文献

引用・脚注

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