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マリー・アントワネット

18世紀のオーストリアの女性、フランス王・ルイ16世の王妃 From Wikipedia, the free encyclopedia

マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)またはマリー=アントワネット・ドートリッシュ(フランス語: Marie-Antoinette d'Autriche[1])は、フランス国王ルイ16世の王妃(王后・王太后)。オーストリアとフランスの政治的同盟のためルイ16世へ嫁ぎ[2]、フランス革命で処刑された。

全名 Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ
Maria Antonia Josepha Johanna
マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ
概要 マリー・アントワネット Marie Antoinette, 在位 ...
マリー・アントワネット
Marie Antoinette
フランス王妃
在位 1774年5月10日 – 1792年9月21日

全名 Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ
Maria Antonia Josepha Johanna
マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ
出生 (1755-11-02) 1755年11月2日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国
ホーフブルク宮殿
死去 (1793-10-16) 1793年10月16日(37歳没)
フランス共和国(第一共和政)
パリ
革命広場
埋葬 1815年1月21日
フランス王国(復古王政)
サン=ドニ
サン=ドニ大聖堂
結婚 1770年5月16日
配偶者 ルイ16世
子女
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 フランツ1世
母親 マリア・テレジア
サイン
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彼女の存在は議論と論争を招いた。君主政の栄華と崩壊を体現した人間、フランス社会の犠牲者、状況に対応できなかったがゆえに束縛を拒否した不服従の女性など、多様な解釈がなされ、それに都合がよい根拠に基づき正当化がなされた。また、シュテファン・ツヴァイクはこの人物を「凡庸な女性」と表現した[3]。

概要

フランツ1世とマリア・テレジアの第15子(第11女)として1755年11月2日にウィーンで生まれた。フランスとオーストリアの同盟に伴う外交政策の一環により[2]、当時フランス王太子だったルイ16世と1770年に結婚し、彼の即位に伴って1774年にフランス王妃となった。

アントワネットは奔放な宮廷生活を送った。それは妊娠と子育てによって多少の落ち着きを見せたものの、宮殿の公的儀礼を嫌った彼女の社交生活は私的かつ排他的なものであり[4]、離宮のプチトリアノンで少数の貴族と過ごすことが多かった[5]。中でもハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの交流は知られている[6]。

アントワネットは、オーストリアに対する同調姿勢や、宮廷生活について王太子妃時代から批判された[7][8]。王妃となってからも、親しい一部の人間のみを贔屓したことや[4]規範を逸脱した行為や言動により、保守的な貴族を中心に大きな抵抗勢力が宮廷内に形成されることになった[9]。

一方でフランスの政治に介入し[10]、1780年以降、アントワネットが及ぼす影響力は強まっていく[11]。そしてフランス革命勃発後も、夫であるルイ16世の政治的な決定に影響を与えた[12]。アントワネットは宮廷内で反革命勢力を形成し、君主制維持を目的として諸外国との交渉を行った[13]。特にウィーン宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待したが、逃亡に失敗する[14]。

1792年にフランス革命戦争が勃発したこともあり、アントワネットのイメージはさらに悪化する[15]。その後も革命が戦争によって外国軍隊に潰されることを目的として、戦争計画をオーストリアに漏洩させた[16]。同年8月10日に王政が廃止され、国王一家はタンプル塔に収監された。

その後、ルイ16世の裁判が国民公会で行われ、死刑判決を経て1793年1月21日に処刑(英語版)された。一方、アントワネットの裁判は革命裁判所で行われ、死刑判決を経て同年10月16日に処刑された。

生涯

幼少期~結婚

少女時代のアントーニア

1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの11女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。代父母のポルトガル国王ジョゼ1世とその王妃マリアナ・ビクトリアが名付け親となった。洗礼式はウィーン大司教が行い、兄のヨーゼフ大公と姉のマリア・アンナが代父母の代理を務めた。アントーニアは幼少期にマリア・カロリーナ、フェルディナント、マクシミリアンといった年の近い兄弟と共に育てられた。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした[17]。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策した。神聖ローマ皇帝フランツ1世の母方の祖父はオルレアン公フィリップ1世であり、ルイ15世の母方の祖母はオルレアン公フィリップ1世の娘であったので、ルイ15世とアントーニアたち姉妹は又従兄妹であった。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド国王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったため、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年4月19日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式はまずウィーンで代理人によって行われ、1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂にて挙行された[18]。この時、オーストリアとの同盟を支持し、彼らの結婚のまとめ役と見做されていたのがショワズール公爵だった[19]。アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られた。

ルイ15世は婚姻によってオーストリアとの同盟を維持しようと考えたが[20]、七年戦争においてオーストリアと同盟を結んだフランスはプロイセンに敗北していた。フランスの感情として反オーストリアの機運が高まり、アントワネットは反オーストリアによる偏見に常に悩まされることになる[21]。当時オーストリアはフランスの犠牲に対してほとんど見返りをよこさなかったと考えられており、夫婦は最初からオーストリアへの根深い不信と反オーストリア感情の標的となった[22]。そしてアントワネットも、早々に形成された否定的なイメージを覆そうと努力することはなかった[23]。とはいえフランスの民衆からは、結婚した1770年には歓迎され、後に1774年に王妃となった時は愛されてもいた[24]。

アントワネットが受けた教育は初歩的なものであり、かすかなドイツ訛りのあるフランス語を上手く話したが正確に書くことには長い時間を要し、歴史・地理・文学についてはほぼ何も知らなかった。ウィーンから派遣された家庭教師は当時のアントワネットについて、聡明ながらいたってわがままで、勉学や真面目な会話の雰囲気のあるものには注意力が途切れてしまうと語っている[25]。

七年戦争の敗北や、フランスの同盟国であるポーランドが1772年にオーストリア、ロシア、プロイセンに分割されたことなど、オーストリアとの同盟後に起こったこれらの事柄は、フランスがヨーロッパでの影響力を失ったとの見方が強くフランス国内に残り、フランス革命時は軍隊が国王を見限る事態に陥ることに繋がった[26]。なお、マリア・テレジアはポーランド分割に反対の立場をとり、フランスがオーストリアに敵意を抱くことを恐れていた[27]。

宮廷生活

デュ・バリー夫人との対立

ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人はアントワネットと対立関係にあった[28]。もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[29][30]。

ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けた。2人の対決は1772年1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりにアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

結婚生活

王と王妃の結婚を祝うメダル

ルイ16世には性器奇形があり、性的結合を果たすことはほぼ不可能だった[31]。アントワネットとルイ16世との間にはなかなか子供が生まれず、これはルイ16世の男性としての能力の欠如やアントワネットの恋の噂を呼ぶ結果となり、彼らの地位を危うくした[32]。当時フランスの王位継承を規定していたサリカ法は男子の王位継承しか認めず、アントワネットには男子を産むことが要求されていたからである[33]。オーストリアにいるアントワネットの母、マリア・テレジアはオーストリアとフランスの同盟関係の維持に不安を抱き[33]、性生活を疑った。1777年4月、アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がお忍びでラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも生活をともにしていた夫妻のもとを訪問し、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロットが生まれた[34]。

フランスに来てからの数年間、アントワネットは奔放な宮廷生活を送っていたが、妊娠と子育てによって多少落ち着きを見せた。しかし彼女はヴェルサイユの公的儀礼を嫌ったままであり、その社交生活はますます私的で排他的なものとなる。周囲を親しい一部の人間で固め、その中でも目立っていたのはアルトワ伯、ランバル夫人、ポリニャック夫人だった。この身贔屓によって、旧い家系の貴族は自分たちが軽んじられている、排斥されていると感じ、後に革命が起きた際、これは彼らが諸改革を受け入れる理由のひとつになった[4]。

トランプや舞踏会や自身の好み、愛人ではないかと非難された取り巻きの友人たちのことで、アントワネットは非難を受けた。宝石・漆器・豪華な衣装を蒐集していた彼女は、城館あるいは屋敷の修復のために莫大な金額を受け取り、それらの屋内で宮廷やフランスの他の地域との接触を断っていた。最も非難を受けた例はプチ・トリアノンであり、とりわけその場に入ることを認められなかった人々から批判の的となる。これは私人としての諸個人を対象とする陰口ではなく、国民の一体性の象徴に対する攻撃だった[35]。これによって王家の系譜が問題視され、ライバルの野心が明確に現れることが可能となった。当時、ルイ16世に代わることを王弟たちが思い描いていると考えられており、世論の一部はオルレアンの家系に味方していた[36]。母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。賭博にも狂的に熱中したと言われる。これに関しては、子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。

フランス王妃として

王妃となったアントワネット
(1775年)
アントワネットを色情狂として描いたゴシップ冊子(1791年)。王侯貴族たちを誹謗するこの手のパンフレット(fr:Libelle)が多数出回った[37][38]

1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。

しかしフランスの絶対王政は王権が特権を承認することで人々の服従を確保していたのであり[39]、この廃止は一種のステータスを奪われた宮廷内の人々からの反感を買った。

こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。

彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷が酷かったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。

1773年に描かれたアントワネット。フランソワ=ユベール・ドルーエ作

政治への介入

アントワネットは貴族による非集権的な立憲政体にすべきという彼女の側近の進言を聞き入れ、ルイ16世が重用していたカトリック絶対王政主義者を排除する意向を固め、政治に介入する[10]。君主政の未来は世論の掌握にかかっていたため、国王夫婦はそれぞれの手段で世論掌握に専念した[40]。

1776年から1786年までの間は明確な管理運営方針の欠如が、また宮廷内部でのアントワネット支持派と国務評定官の間の争いが顕著だった時期である[11]。1780年代、アントワネットが政治に及ぼす影響力は次第に強まっていく。それまでもメルシー伯爵は彼女をオーストリアのスパイに仕立てようとしており、アントワネットは1775年にジャック・テュルゴーを失脚させ、1781年にジャック・ネッケルを罷免するなど宮廷の陰謀に関与していた[41](1770年代以降の大臣・官僚たちはフランス王国をひとつものとして視野に収め、王国内部の区別や差異を可能な限り解消し均一化するとともに、王権が王国を一元的に把握・統治できる国制を目指し改革を提案していた[42])。これはアントワネットの兄ヨーゼフ2世を激怒させ、夫であるルイ16世は臣下たちの助言によって、アントワネットを政策決定や顧問会議から排除していた[41]。テュルゴーの失脚はアントワネットと親しいギーヌ伯(英語版)が、ロンドン証券取引所で投機を行い損失を出したスキャンダルも関係していた。アントワネットはこの事件の裁判に介入し、テュルゴーをバスティーユ監獄に送り、ギーヌ伯を侯爵にすることを求めた。1776年3月には、テュルゴーはルイ16世によって高等法院から守られたものの、5月には辞職することとなった[43]。

やがてジャン=フレデリック・フェリポー・ド・モールといったルイ16世が信頼していた人物が死去し、改革の失敗によって自信を失っていった結果、ルイ16世はアントワネットを頼るようになり、1788年までには特定の顧問会議にアントワネットを連れて行き、彼女が出席していない時にすら相談のために議論中でも退席さえした。これはルイ16世の優柔不断や確信のなさから来るものだったが、対してアントワネットは愛国派や自由主義的な大臣たちが提唱する改革は忌まわしいものと信じて疑うことがなかったのであり、あらゆる改革に反対する彼女の姿勢にルイ16世も影響を受けていった[44]。

ネッケルの後任であるカロンヌは、アントワネットとアルトワ伯からの寵愛を受けていたが、世論の一部とルイ16世を敵に回していた[45]。カロンヌの提案はただ国庫収入の改善だけでなく、絶対王政支持派が目指す国政の方向も示していた[46]。アントワネットの並外れた気前の良さにカロンヌ自身も便宜を与えていたが、アントワネットの名を騙った詐欺首飾り事件が発生したはこの頃、1785年である[47]。事件に関わったルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアン=ゲメネ枢機卿に対する民衆の支持と1786年5月に高等法院により枢機卿が釈放された際の民衆の歓喜は、専制政治に歯止めをかける存在としての高等法院に対する民衆の支持を示していた[39][48]。国王夫婦はこの事態を前に打つ手がなく、アントワネットの評判は大きく傾いた。2人は反撃に移り、アントワネットはパリ高等法院により車裂きの刑を宣告されたショーモンの被告3人を擁護し、結果、高等法院は批判の矢面に立たされた[49]。

この時の変化は、数年前から積み重なっていたものの帰結と見ることができる。子供が誕生したことによってアントワネットの王妃としての正当性は確保されたものの、マルリー・ランブイエ・サン=クルーといった城館の購入(サン=クルーはルイ16世が600万リーヴルで購入し彼女に与えた)、召使に作った独自の制服、仲間内の集まりが諸々の批判をもたらした[50]。

フランス革命勃発

「首飾り事件」の元となったダイヤの首飾り。金500kg相当の価値があった

1989年

アメリカ独立戦争について、アントワネットは反乱軍に警戒心を抱きながらも、国王と同じくイギリスの力を弱める好機として理解した。この一件によって諸州での憲法をめぐる政治的議論といった新たな価値観がフランスに導入される[51]。アントワネットもアメリカ熱に囚われ、独立戦争のエピソードに着想を得た髪飾りや帽子を身に着けた[52]。世論はしばしばアントワネットをはじめとする王室関係者の浪費を非難したが、財政危機を招いた最大の要因はあくまで軍事費であり、破産状況に至ったのはアメリカ独立戦争が原因だった[53]。この頃、アントワネットは「第三身分の王妃」を自称し、これは全国三部会にあたり第三身分の議員数倍増を拒んでいた高等法院に対する、宮廷の反撃を容易なものにした[54]。

1789年5月5日、ヴェルサイユ宮殿で全国三部会が開かれ、やがてそれはフランス革命がへと変わっていった(とはいえ、国民議会が行ったのは「革命」というより「再生」であり、王政の廃止を望む者はごく稀にしか存在しなかった[55])。その後7月11日、ルイ16世はネッケルを罷免する[56]。これがパリに伝わった際、民衆はルイ16世が第三身分の議員を排除するために近衛兵を動かしていた[57]ことなどから、国王政府が議会に武力を行使する意図があると理解して憤慨し、またパリに軍隊が派遣されることを恐れた。こうして7月14日、バスティーユ襲撃事件が発生する[56]。アルトワ伯やポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)が国外へと亡命し、不満を募らせた一定数の宮廷人たちもトリノの宮廷でアルトワ伯に合流しようとした[58]。地方長官と地方長官補佐も姿を消し、国王政府の地方行政は実質的に機能しなくなった結果、政治機関として実質的に機能しており、尚且つ政治を主導する正統性を持っているのは国民議会しかいない事態へと陥った[59]。一方、王妹エリザベートとランバル公妃はそれに従わずアントワネットら国王一家とともにフランスに残る選択をしている。

亡命した王族、とりわけアルトワ伯とコンデ新王は、再生された君主政とのあらゆる妥協を拒否していた。コンデ新王はフランス国外で貴族の連携を利用し、彼の財産によって反革命への資金提供者のひとりとなった。アルトワ伯はヨーロッパの君主からはあまり支持されておらず、彼の主張に対して多くの亡命者が躊躇した。アルトワ伯を支持したのは王妹エリザベートくらいのものであり、アントワネットとルイ16世はアルトワ伯の野心を警戒した。プロヴァンス伯は独自の活動を展開し、アルトワ伯の立場を公然と非難することはなかった。アルトワ伯をはじめとする1787年以前のフランスを懐かしむ人々は、プロヴァンス伯を含めた1789年を受け入れた人々を、君主国の真正性を危険に晒したことを理由に、決して許そうとしなかった。君主政支持派の間での分裂は、その後も続くこととなる[60]。

また、アルトワ伯の意を受け、実際に行動を受け持ったのはカロンヌだったが、君主政支持派の人々が抱えた上記の事情が原因となって、策謀は日の目を見なかった。ヨーロッパ諸国も、フランスが革命のために混乱し、国際的影響力を低下させるのは彼らとって好ましいことだったため、この一件に干渉する意思を持たなかった[61]。

9月末のパリでは、食糧難になるのではという危惧が、貧しい人々の不幸に対して鈍感とされた司祭に対する民衆の反攻に付け加わっていた。こうした中で、国王一家・国民衛兵・フランドル連隊などが出席していた宴の折に、連隊の将校が王妃らの目前で三色徽章を踏みつけ、アントワネットの祖国オーストリアを表す黒の徽章を身に着けたという噂が流れた。これによってパン価格の引き下げおよびルイ16世による人権宣言の承認を要求するデモ隊がヴェルサイユに向けて出発する(ヴェルサイユ行進)。群衆は国民議会を包囲し、その光景は議員の大多数に衝撃を与えた。ラファイエットや国民衛兵隊は、城館の占領や数名の国民衛兵の死、国王夫妻が中庭のバルコニーに姿を見せ民衆の要求に従わなくてはならなくなった事態を拒めなかった。ルイ16世はパリにおける小麦粉供給の改善を約束し、躊躇った後に人権宣言を承認した[62]。国王一家はテュイルリー宮殿へと入ることになり、議会も宮殿の調馬場に移った[63]。この事件を機に、ルブラン夫人はローマに亡命した[64]。

反革命組織網のトップ

亡命貴族との複雑な競合関係に巻き込まれていた国王夫妻は、諸外国の君主のもとに派遣された大使たち、とりわけブルトゥイユ男爵を擁する反革命組織網のトップに立っていた。こうした活発な秘密外交は、後にアントワネットに責任が被せられる。一方、スウェーデン国王グスタフ三世はアーヘンを起点にしつつフェルセンを使い、国王夫婦の逃亡を企てる反革命的スパイ組織網を編成した。この活動の重要性は高いものではなかったが、それに反し、フランスの内戦開始を意味するために人々から恐れられたルイ16世の出国は、ことあるごとに報じられて非難を受け、噂と本物の準備が混じり合っていた[65]。

1791年1月、スペイン大使はアントワネットと話し、「ルイは私たちを苦しめている悪を、いかなる犠牲を払おうとも放逐しないのであれば、自分自身に対して、臣民に対して、そして全ヨーロッパに対して、義務を怠ることになりましょう」と身を震わせながら言う彼女を見て「忍耐が極致にいる女性の面前に立っている」と感じた[66]。

アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。しかし彼は用心深くなかなか首を縦に振らなかったため、これはアントワネットを失望させた。レオポルト2世は1791年6月になってようやく、ルイ16世が国から脱出し独自に行動できる立場を得た後であれば資金と軍隊を全面的に援助するとした[67]。

メルシー伯爵は国王夫妻が民衆の革命に対する支持の大きさをあまりに低く見積もりすぎていると指摘し、アントワネットに対して逃亡がどんな結果を招くことになるのが熟慮するようにと懇願したが、聞き入れられなかった[68]。

宮廷のみならず、議会も民衆の暴力性を目にする度に衝撃を受けていた[69]。民衆の暴力を嫌ったオノーレ・ミラボーは、ルイ16世から活動資金を得て、審議中の新たな憲法が目指す立憲君主制のもと可能な限り国王の権限を強化できるよう活動していた。しかし彼は1791年4月に病没し、協力者を失ったルイ16世は政治的決定に関してますますアントワネットを頼るようになった[70]。アントワネットはミラボーが死去する前から彼への信頼を完全に失っており、自らの兄弟やメルシー伯への手紙で、自分と家族は反逆者の暴徒たちもしくは御しがたい臣下たちの虜囚のようなものだと訴え、革命家たちが貴族や王族とさえ平等と主張することを思い上がりであるとして激怒している。彼女は革命家たちを表す時「怪物」という表現をよく使用した[71]。

ヴァレンヌ事件とその後

1791年6月20日、ルイ16世を外国軍の支援が得られる場所まで逃亡させる計画は実行に移され[72]、ヴァレンヌ事件が発生した。ルイ16世は軍隊の指揮をとる際に身につけるつもりだった礼服しか持っていかなかったが、アントワネットは手持ちの衣装すべてに加え、ダイヤモンドと宝飾品のほとんど、家具や特別仕立ての化粧箱を事前にひそかに持ち出していた。この化粧用具の輸送や化粧箱の製作が発覚し、愛国派である小間使いの1人の疑惑をかき立てた[73]。

国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。

国民議会は7月13日まで審議した結果、国王は脅迫と圧力によって決定の自由を奪われており、精神的な意味で誘拐されていた。従って、その軽率で無責任な行動は道徳的には非難されなけらばならないが、法的な責任を問うことはできないとして庇った[74]。事件当時、最初は衝撃を受けた民衆はそれが過ぎ去った後、スペイン大使が書き残したところによれば「完全な静寂が支配している。それと同時に、誰もが卒中にかかったような、麻痺したような感覚も支配している」状態だった[75]。国王が捕まったという知らせが届いた22日以降、「自由に生きるか、さもなくば死」という標語が国中に流れ、議会や地区ごとの友愛協会などに自発的に赴き、憲法への忠誠を誓った。彼らの行列の中には武器を携えた者もおり、この頃、政治勢力としてのサン=キュロットが出現した(それまではサン=キュロットとは暴力的な民衆に対する蔑称だった)[76]。

議会の決定がパリ市内に伝わると、いくつかの民衆協会では抗議の声があがる。7月16日、コルドリエ・クラブが共和制の樹立を含む請願書を用意し、翌日にはシャン=ド=マルスにある祖国の祭壇で請願書に署名することを呼びかけた。署名は6000名ほど集まったが、彼らに対し市長ジャン=シルヴァン・バイイは戒厳令を出し、国民衛兵が法の定める手続き(3回にわたる警告)なしに民衆にむかって発砲したことで死傷者が出た(シャン=ド=マルスの虐殺)[77]。

国王夫婦を尋問するために3人の議員が国民議会によって選ばれ、6月26日の晩からこれが始まる予定だった。しかしアントワネットは入浴中と称して時間を延ばし、ルイ16世と口裏を合わせた。これにより、王は国を出るつもりはまったくなく、パリで経験した威嚇や侮辱から自分と家族の身を守れるモンメディに旅行しただけだった。外国勢力と関りをもったことはなく、フランスのいたるところで人々が新憲法を支持しているとわかって驚いたという話が作られた[78]。

ヴァレンヌ事件の帰路、フイヤン派のアントワーヌ・バルナーヴはアントワネットに取り引きを持ちかけた。自分とその友人たちは、君主制を温存し、国王の権威を強化するために全力を尽くすことを約束する。その見返りとして、ルイ16世が憲法を受け入れ、オーストリアからフランス新政府の認知を取り付けられるよう取り付けることを望むと彼は述べた。そして6月下旬からバルナーヴやデュポール(英語版)、ラメト兄弟は(英語版、兄・弟)は国王と秘密交渉を再開していた[79]。しかしアントワネットはフェルセン、メルシー伯、レオポルト2世に宛てた手紙でバルナーヴとの交渉を否定し、逃亡未遂後に受けた侮辱に憤慨しながら議員たちを「獣」「ならず者」「狂人」と糾弾し、憲法全体が「実行不能で馬鹿げたものの連続」でしかないと非難した[80]。

フランス革命戦争

1791年9月3日、国民議会は国民主権を旨とし立憲君主制を明文化した1791年憲法を採択した[81]。ルイ16世が立憲君主制を望まないと国中に周知されたままであり、共和制を望む声も活発だったが、新憲法が正常に機能することは多くの人が期待していたことでもあった[82]。

新憲法の成立に伴い国民議会は解散し、10月1日、立法議会が開会した[83]。王家の憲法承認が見せかけであると確信していたジロンド派のリーダーであるジャック・ピエール・ブリッソーは宮廷が革命を潰すために目論んでいる陰謀を暴きつつ戦争を通して革命の理念を諸外国に広めようとしていた。既に国外で起きた革命が外国軍に圧し潰されるのを見てきたことや、ピルニッツ宣言によってフランスも軍事介入を受けるであろうと多くの人が考えたこと[84]。ラファイエット派は戦争が起これば王は勝利のためアメリカ独立の英雄ラファイエットに頼らざるをえなくなり、勝利後には彼が王権を支えるだろうと予想したことなどから議会は開戦へと大きく傾いた。王政を支持し憲法が機能することを望んだフイヤン派は反対し、マクシミリアン・ロベスピエールも「誰も武装した宣教師など望まない」と警告した[85]。しかしルイ16世はオーストリアがフランス軍を戦争で打ち負かし、自分の権威を回復させると見込み、1792年4月20日、議会に対して宣戦布告を要求した[86]。

諸制度の拒否に関してルイ16世以上に徹底的だったアントワネットも[87]、革命が外国軍によって潰されることを期待し、フランスの戦争計画をひそかにオーストリアに流した[16]。バルナーヴの助言を受け入れていると見せる一方で、ひそかに別の方策をフェルセンと共に取り、外国の君主たちに対する戦費の返済に備えていた[88]。なお、この頃のルイ16世は、亡命貴族や弟たち、アントワネットと同じく諸制度を徹底的に拒否していた王妹エリザベートに対しても距離を保ち、その一方で、バルナーヴ・ラメット兄弟・デュポールからの助言を求めていた[87]。

8月10日事件

ラファイエットは、再生されたフランスを率いる地位に強力な権力を復活させようと望み[89]、国王一家を救出するとともに、自分に忠実なはずの国民衛兵を用いてクーデターを計画していた。しかし彼を嫌ったアントワネットは、この計画をパリ市長ペティヨン(英語版)に通報し、クーデターは失敗する[90]。7月25日、ブラウンツヴァイクの宣言によってパリ住民が即座に無条件でルイ16世に服従しない場合、パリを徹底的に弾圧することが示唆される。これはルイ16世が外国軍に保護された王であるという認識を強めた結果、彼に批判が向かった[91]。

8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃する。国王夫婦は議会に避難するよう説得され、一家は議場の議長席の後ろにある速記者用の小部屋の席に着いた[92]。しかしアントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉されることとなる(8月10日事件)。議会は国王一家をリュクサンブール宮殿に住まわせようとしたのに対し、パリのコミューンが監視付きでタンプル塔へ幽閉することを希望し、後者が実現された[93]。

タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団欒の時間があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

革命裁判

マリー・アントワネットの裁判の様子
王党派貴族のルージュヴィル。1793年に、買収した看守に夜間に扉を開けさせてアントワネットを連れ去るという脱出計画を立て、詳細を暗号で記した紙をカーネーションの茎に仕込み、それを監獄見学者にまぎれてアントワネットに手渡したが、花を床に落とした際に暗号メモが見つかり失敗した(カーネーション事件)[94]。

11月20日、テュイルリー宮殿の壁から鉄の戸棚が見つかり、そこから押収された手紙類から、贈収賄の駆け引きとルイ16世および宮廷の裏切り行為、のみならずミラボーといった特定の革命家の裏切り行為も明らかになった。ミラボーの遺灰は直ちにパンテオンから撤去された。鉄戸棚にあった書類は内務大臣ロランが国民公会に提出したのだが、その書類を開き選別する作業を立会人なしで行ったために非難を浴びた。こうしてジロンド派の権威は議会内部で徐々に失われ、彼らによるコントロールが次第に困難になっていった[95]。

1793年1月19日、国民公会はルイ16世に死刑判決を下した。国王一家は翌日になってから死刑判決を知らされ、最後の面会を行った[96]。1793年1月21日午前10時にルイ16世の死刑が執行されるとアントワネットはルイ・シャルルの前にひざまずき「国王崩御、国王万歳!」と言い、新王として接したという[97]。ルイ16世の死後に王后アントワネットは王太后カペー未亡人と呼ばれるようになり、喪服を着て過ごすようになった[98]。王党派によりアントワネットの脱出計画が立てられたが、実行に移されることは無かった[98]。7月3日、ルイ17世はアントワネットと引き離され、ジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンの手にゆだねられた[99]。

5月31日~6月2日のパリコミューンによる蜂起によって、蜂起民の威圧のもと、国民公会はジロンド派議員29名と大臣2人の逮捕を決定する[100]。しかし逮捕されたジロンド派議員に対する監視はゆるく、6月2日に抗議した73名の議員は投獄されたものの一度も裁判にかけられず、事実上ロベスピエールの庇護を受け、テルミドール9日のクーデター後には復帰する。ジロンド派追放の事件に対する解釈は今なおはっきりしていないが、しかしこの日以降、国民公会の均衝は山岳派と平原派の同盟に移行した[101]。

ノルマンディなどに逃亡したジロンド派議員は、パリを批判する連邦主義の反乱(フランス語版)を煽動した[102]。彼らの話を聞いたシャルロット・コルデーは、マラーの暗殺を決意し、7月13日に実行された。革命が脅かされていると受け止めた人々は、山岳派が指導する議会を守り団結しようとする。フランス革命戦争の戦況が悪化したことも、人々の危機感を煽った[103]。この事件は最終的に、彼女が属していた貴族に対する弾圧・彼女が近かったジロンド派に対する弾圧。そしてアントワネットから革命支持の女性にいたるまでの女性に対する弾圧が、コルデーが彼女らとの相容れなさを示したことにより正当化された[104]。8月1日、バレール(フランス語版)による演説によって示されたものの中に、アントワネットの告訴があった[105]。

8月2日午前3時[106]、アントワネットはコンシェルジュリーへ移送された。フェルセンの提案により、身代金を支払う事でアントワネットの解放を模索する動きもあったが、実現されることは無かった[107]。しかし王党派が立てた計画のうち、元士官のルージュヴィルが立てた脱出計画は、1793年8月28日に実行されるも失敗。ルージュヴィルはオーストリアへ逃亡し、警察管理官であったミショニが逮捕されるという「カーネーション事件(en:Carnation Plot)」が起きた。事件以後、アントワネットの独房には検査が入るようになり、窓の下には歩哨が立つようになるなど、監視が強化された[108]。アントワネットは1793年10月12日に裁判の事前尋問を受け、10月14日午前8時から午後11時、16日午前8時から午前4時の2日半間に渡り革命裁判所で裁判が行われた(裁判官は合議審で何人も交代し泣いたと伝う。また、ジャコバン派の推薦した証人は数十人以上にもなったと云う)。アントワネットは内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画に対しての罪に問われ、重罪により死刑が求刑された[109]。アントワネットは罪状の全てについて否定して自らを弁論した。ヴァレンヌ逃亡については、夫であるルイ16世に従ったためと答えた[110]。ジャック・ルネ・エベールはルイ17世による申し立てとして、母親との近親相姦があったと報告したが[111]、このような証言はロベスピエールを激怒させる結果となった[112]。

しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、1793年10月16日午前4時頃にアントワネットは死刑判決を受けた[113]。処刑の直前にアントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった[114]。 この遺書は牢獄の管理人であったボーに渡され、検察官のタンヴィルから数人の手に渡った後、王政復古の時代にルイ18世にゆだねられた[115]。なお、革命から唯一生き延びたマリー・テレーズがこの遺書を読むのは1816年のことだった。

最期

処刑前のアントワネットのスケッチ

処刑前日には白髪になったとされる[116][117]。

遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。すべて終わりました」と述べたと言われ、白衣に白い帽子を身に着けた。革命広場に向かうため、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによると、最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès.)[118]」だとされている。

10月16日12時15分、死刑が執行された。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた[119]。

死後

遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[注 1]に葬られた。のちに王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[注 2]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。

1815年、アントワネットの遺体はルイ16世の遺体とともに、厳粛な儀式を経て歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に移送され、地下聖堂に安置された[120]。

サン=ドニ大聖堂の慰霊碑

食糧問題にまつわる発言について

アントワネットには浪費癖があったものの[121]、彼女が「パンがなければお菓子を食べればいい」と発言したとの話が本当であるという証拠は存在していない[122][123]。中級および民俗的なコミュニケーションレベルで使用されているこの説は、学術レベルではほぼ存在しないものである[124]。また歴史学者ルフェーブルはその著作で、この発言をアントワネットのものとする説を誤りであるとして退けている[125]。

類似の逸話は、年代を問わずインドなど世界各地で見られ[126]、ジャン=ジャック・ルソーの『告白[127]』(1766年ごろ執筆)の第6巻にも存在する。ルソーは家庭教師として雇われている家からワインを数本「借りて」(つまり盗んで)きたため、ワインを飲むためにパンを探していた。しかし、彼はパン屋に入るにはあまりにも上品な服装をしていた。「最後に、農民にパンがないと言われた偉大な王女が『ブリオッシュを食べさせればいいじゃない!』と答えた最後の手段を思い出した」。そして彼は菓子職人からブリオッシュを買ったという展開であり、ことわざをユーモラスに用いた話であって憤慨や非難、教訓といった意図はない[125]。なお、公爵夫人の発言は、庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年ごろ)のことという。

アルフォンス・カー(フランス語版)は、アントワネットのこの発言は「1760年の書物に、トスカーナ公爵夫人の同じ発言が記されている」としている[125]。

1931年ドイツの児童書の中で、この逸話はアントワネットのものとされたようである[123]。このエーリヒ・ケストナーによって書かれた児童書『ピュンクトヒェンとアントン』は非常に人気があり、多くの言語に翻訳され1999年には117版を重ねた[125]。

人物・言行

宮廷生活とプチ・トリアノン宮

「小トリアノン宮殿」も参照。

ルイ14世がフランス絶対王政の栄耀栄華と宮廷内の秩序を示すために定めたヴェルサイユの宮廷儀礼は非常に厳格であり[128][129]、またふるさとであったウィーンの雰囲気とも異なったため、アントワネットはそれに適応するのに苦労した[130]。王太子妃時代は母親のマリア・テレジアへヴェルサイユの宮廷儀礼の厳格さを嘆いており[129]、第一子のマリー・テレーズを出産した際は出産の苦痛と見物人のせいで疲労が極限まで達し、それを見たルイ16世自身が第二子以降の出産の際、見物人の人数の制限を行ったほどだった[131]。

ルイ16世は1774-1775年頃、アントワネットにもともとルイ15世の所有だった「プチ・トリアノン」を贈る[132][133]。アントワネットにとって「王妃の村里」はプチ・トリアノンの自由さに加えて自然の空間を味わう場所でもあった。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた[134]。アントワネット自身、麦わら帽子をかぶり、モスリンのドレスを着て礼儀作法に縛られない田舎風暮らしを好んだ[135]。この田園生活への憧れは、アントワネット固有のものではなく、当時の王侯貴族に共通するものだったという説もある[136]。また、プチ・トリアノンはヨーゼフ2世、グスタフ3世、後のパーヴェル1世などの賓客を迎える場となった[137]。

しかし、この閉鎖的に受け取れる姿勢はヴェルサイユのしきたりを無視するものとして受け取られ、「小ウィーン」と呼ばれて、他の貴族たちから反感を抱かれた[138][139]。アントワネットに近侍していた身分が低い女性たちと身分高い貴婦人たちの間で対立が激しくなり、アントワネットについて記した怪文書が出回った[138][139]。

王妃の村里での農婦姿のアントワネット。(1791年[注 3])

音楽

ハープを奏でる王妃(1777年)

上記の通り、ウィーン時代にクリストフ・ヴィリバルト・グルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。また、彼女が1774年1月30日にオペラ座でフェルセンと出会った時に二人は音楽について話し、グルックが好きという点で一致したというエピソードが残っている[140]。

アントワネットは自らハープやチェンバロを演奏し、歌も歌えた。また彼女はグレトリー、グルック、サッキーニなど、自分が評価する作曲家を支援した[120]。作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。

2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をアントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇『ベルサイユのばら』で使用された。このアントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜[141]も出版された。

入浴

アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がないフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。

建造物・植物

宮廷の人々は庭園を愛した。ルイ15世は植物に強い関心を持ち、その熱意が反映されたトリアノンはアントワネットに受け継がれた。彼女はそこの木々をパリ植物園に追放し、当時流行していたイギリス風の花壇を造り上げることにした[142]。1730年代のイギリスで出現し流行していた、この庭園に対する考え方は、アングロ・チャイニーズ庭園とも呼ばれる。起伏のある地形や水路などが配置されたスタイルであり、フランス式庭園とはまた異なる。この庭園を実現させるため、建築家リシャール・ミケ(英語版)と庭師アントワーヌ・リシャールは大規模な工事に着手した[143]。かかった経費とミケの個性、そしてアントワネット自身はそれらに満足してはいなかったが彼女専用の庭園だったことによって、これらは論争を巻き起こした[144]。グラン・トリヤノン離宮の重苦しさから逃れるためにマルリー離宮が造営され、他方でランブイエ城には新たに別の王立酪農場が設けられた。これはアントワネットに対する世論の怒りをかき立て、彼女は孤立していった[145]。

また、17世紀から宮廷で一大ブームとなった香水は、18世紀に入るとより繊細かつ複雑なものが作られるようになり、衛生状態も改善され体臭が減少したため香水の役割も変わった。アントワネットは花の香りがする香水をワードローブに欠かせないものとして扱った[142]。香水はタンプル塔にも持ち込まれた。

古代ギリシア・ローマ、中国およびイギリスという手本は、魂を高揚させ徳を教え込もうと望む建築家にとって注目されたモチーフだった。アントワネットが家具を備え付けた城館すら、バロック様式好みにエルトリア芸術を合わせたものだった[146]。また、アントワネットは子供たちのそばにいるために、ヴェルサイユ宮殿内のアパルトマンの整備を行った[147]。

ファッション

麦藁帽子にモスリンのシュミーズドレス姿の王妃(1783年)

アントワネットはファッションにも多くの時間を費やした。これはマリア・テレジアの不満の種となり、母親は定期的に我が子へファッションについて忠告していた。アントワネットはドレスやヘアスタイルの選択にもしばしばを口を出し、その仕事を任されていた侍女を無視し、悪意を込めて「ファッション大臣」と呼ばれた帽子職人のローズ・ベルタンを招き入れることもあった[120]。王妃は宮廷の作法を無視することも厭わずローズ・ベルタンと打ち合わせた。王妃に仕えた期間中、彼女は当時のファッションに大きな影響を与え、高く盛り上がったヘアスタイル、モスリンのドレスなど、数々の新しいトレンドを生み出した[148]。当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた[149]。

即位後最初の数年間を過ぎてからのアントワネットは、ドレスもヘアスタイルも簡素なデザインのものを好むようになる[150]。それに合わせてベルタンは、アントワネットのために肌着として着用されていたモスリン生地や綿生地のシュミーズをパニエを着用しない気軽な普段着にアレンジしたシュミーズドレスをデザインした。また、アントワネットはパステル調の色彩を好み、特に青を好んだといい[151]青いドレスをまとった肖像画が多数残されている。

ルブラン夫人がモスリン生地のワンピースを着たアントワネットの絵を展示したところ、きわめて否定的な反応が見られた。服装が彼女の私生活の中での不謹慎と考えられ、またアントワネットが侍女のような服を着ていることから、ルイ16世の威厳を貶めるものとも見做された[152]。

容姿

ジョゼフ・シフレ・デュプレシスによる作品。フランス国内で初めて描かれた、アントワネットの最初の肖像画[153]

身長は154cm[154]。裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった[155]。一方で、30歳のときにはかなり豊満な体型だったようで、その豊満さを覆い隠すようなギリシャ風の装いを考案している[156]。

突き出た目、高い額[157]、金髪でハプスブルク家特有の鷲鼻と厚い下唇が特徴の顔立ちだった。美人ではなくとも魅力的な容姿であり[158]、教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。これほど美しい腕や手は、その後二度と見たことがない」、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている[159]。

身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている[160]。

子女

4人の子供のうち3人は夭逝。長女マリー・テレーズは1799年結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。マリー・テレーズは結婚15年目の1813年1月に懐妊したが、流産。その後は妊娠することがなく子どもを残していないため、子孫はいない。

女官・侍女

  • ノアイユ伯爵夫人
    • 侍女長ないし女官長。ノアイユ家。1775年、ランバル公妃が女官の新たな筆頭職に就いたのと入れ替わりで辞職。1794年6月27日、夫フィリップともどもパリでギロチン刑に処された。
  • カンパン夫人
    • 1786年に部屋つき第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃やポリニャック公爵夫人らとは別の役職)。父は外交官ないし高級官僚。帝政下に開いた学校にてナポレオン・ボナパルトの子女を教育したことを理由に、王政復古後はマリー・テレーズから絶縁される。その後マリー・アントワネットの回想録を出版した[161]。
  • ルイーズ・ケットペ・ド・ラボルド ("Louise Marguerite Émilie Henriette Quetpée de Laborde")
    • カンパン夫人と同じ部屋つき第一侍女。ジャルジャイュ伯爵フランソワ・レーニエ(フランス語版)将軍は再婚相手。
  • トゥルゼール公爵夫人(フランス語版)
    • 1789年のフランス革命勃発以降、スイス方面に亡命を余儀なくされたポリニャック公爵夫人に代わり、国王子女の養育係に任命された。ヴァレンヌ事件では国王一家と同行し逮捕。常に王室に忠実であり、帝政時代初期まで数回投獄されている[162]。
  • ポリーヌ・ド・トゥルゼール(英語版)
    • トゥルゼール公爵夫人の娘。母とともにテュイルリー宮殿で国王一家に付き従っていた。結婚後はベアルン伯爵夫人。マリー・テレーズとは生涯友情関係にあり[163]、復古王政期にマリー・テレーズの侍女になった。

ギャラリー

参照文献

ノンフィクション・評伝

  • カストロ, アンドレ『マリ=アントワネット』 1巻、村上光彦訳、みすず書房、1972年4月。ISBN 978-4-622-00507-0。
  • カストロ, アンドレ『マリ=アントワネット』 2巻、村上光彦訳、みすず書房、1972年6月。ISBN 978-4-622-00508-7。
  • Carolly Erickson (1991-03). To the Scaffold: The Life of Marie Antoinette. William Morrow & Co. ISBN 978-0688073015
  • フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ, 河野健二, 阪上孝, 富永茂樹 編『フランス革命事典2 人物Ⅰ』みすず書房〈全2巻〉、1998年12月10日。 NCID BN12826171。, 1巻, ISBN 4622034980, 2巻, ISBN 9784622050339
  • 佐伯真魚『マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌』中央アート出版社、2010年6月。ISBN 978-4-8136-0586-7。
  • 安達正勝『マリー・アントワネット:フランス革命と対決した王妃』中央公論新社、2014年9月25日。ISBN 9784121022868。[164]
  • 阿河雄二郎, 嶋中博章『フランス王妃列伝 : アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで= Vies des reines de France』昭和堂、2017年。ISBN 9784812216323。全国書誌番号:22930747。https://id.ndl.go.jp/bib/028320223。
  • エマニュエル・ド・ヴァリクール 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリーアントワネットと5人の男 宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち(上)』原書房、2020年10月25日。ISBN 9784562057962。
  • エマニュエル・ド・ヴァリクール 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットと5人の男 宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち(下)』原書房、2020年10月25日。ISBN 9784562057979。
  • ジャン=クリスティアン・プティフィス 編、土居佳代子 訳『12の場所からたどるマリー・アントワネット(上)』原書房、2020年12月5日。ISBN 9784562058617。全国書誌番号:23471084。
  • 山﨑耕一『フランス革命「共和国の誕生」』刀水書房、2018年10月。ISBN 978-4-88708-443-8。
  • ティモシー・タケット(英語版)「王の逃亡 フランス革命を変えた夏」白水社、2023年12月。ISBN 978-4560093887。
  • ピーター・マクフィー(英語版)著、永見瑞木・安藤裕介 訳「フランス革命史――自由か死か」白水社、2022年。ISBN 978-4-560-09895-0。
  • マイク・ラポート著、楠田悠貴 訳「ナポレオン戦争 18世紀の危機から世界大戦へ」白水社、2020年6月。ISBN 978-4560097809。
  • 竹中幸史『図説 フランス革命史』、河出書房新社、2013年1月、ISBN 978-4309762012。
  • ジャン=クレマン・マルタン(フランス語版)、「新フランス革命史」法政大学出版、2026年7月。ISBN 978-4588012068。
  • ロジャー・プライス 著、河野肇 訳『フランスの歴史』創土社〈ケンブリッジ版世界各国史〉、2008年8月。ISBN 978-4-7893-0061-2。

書簡集

  • パウル・クリストフ 編、藤川芳朗 訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』岩波書店、2002年9月26日。ISBN 9784000248013。
  • エヴリン・ファー 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットの暗号 解読されたフェルセン伯爵との往復書簡』河出書房新社、2018年8月30日。ISBN 9784309227351。

一次資料

  • Sir Archibald Alison (1855). Histoire de l'Europe depuis le commencement de la Révolution française en 1789 jusqu'à nos jours, V. F. Parent

フィクション・文学

関連書籍

シュテファン・ツヴァイクによる評伝
以下の伝記・評伝も日本語書籍のみを記載。
  • 「マリー・アントワネット」(フランク・W.ケニョン(英語版)/岡田真吉訳、潮書房、1956年10月、NCID BN1543575X)
  • 「マリー・アントワネット」(アレクサンドル・デュマ/木村毅、大倉燁子訳、小山書店新社、1957年10月)
  • 「物語マリー・アントワネット」(窪田般彌(窪田般弥)、白水社、1985年1月/白水Uブックス、1991年6月)。新書判
  • 「デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット ロココの落日」(飯塚信雄、文化出版局、1985年3月)
  • 「マリー・アントワネットの生涯」(藤本ひとみ、中央公論社、1998年7月/中公文庫、2001年6月)
  • 「マリー・アントワネット」(ジョーン・ハスリップ(英語版)/櫻井郁恵訳、近代文芸社、1999年6月)
  • 「王妃マリー・アントワネット」(エヴリーヌ・ルヴェ(英語版)/塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2001年11月)
  • 「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」(パウル・クリストフ編/藤川芳朗訳、岩波書店、2002年9月)
  • 「マリー・アントワネットとヴェルサイユ-華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2003年8月)
  • 「ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」(ケーラー・鹿子木美恵子、叢文社、2005年5月)
  • 「マリー・アントワネット」Marie Antoinette: The Journey(アントニア・フレイザー/野中邦子訳、ハヤカワ文庫(上下)、2006年12月)
  • 「マリー・アントワネット38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2008年1月)
  • 「王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇のすべて」(藤本ひとみ、角川書店、2008年6月)
    • 各・文庫化「王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇」、「― 青春の光と影」も(角川文庫、2011年2月)
  • 「マリー・アントワネットとフランスの女たち 甘美なるロココの源流」(堀江宏樹、春日出版、2008年8月)
  • 「マリー・アントワネットの「首飾り事件」」(アンタール・セルプ(英語版)/リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2008年10月)
  • 「王妃マリー・アントワネット」(新人物往来社編〈ビジュアル選書〉、2010年4月)
  • 「王妃マリー・アントワネット 美の肖像」(南川三治郎写真、世界文化社、2011年3月)
  • 「マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命ヴァレンヌ逃亡」(中野京子、朝日新聞出版、2012年2月)
  • 「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」(石井美樹子、河出書房新社、2014年6月、ISBN 978-4-309-22612-5)
  • 安達正勝『マリー・アントワネット : フランス革命と対決した王妃』中央公論新社〈中公新書〉、2014年。ISBN 9784121022868。全国書誌番号:22489398。https://www.books.or.jp/book-details/12000000000000002990。
  • 「マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯」(エレーヌ・ドラレクス、アレクサンドル・マラル(フランス語版)、ニコラ・ミロヴァノヴィチ/岩澤雅利訳、原書房、2015年3月、ISBN 978-4-562-05141-0)
  • 「コミック版世界の伝記28 マリー・アントワネット」(ポプラ社、2014年、漫画:山田せいこ 監修:石井美樹子)

マリー・アントワネットを扱った作品

小説

  • 『SOSタイム・パトロール』- 光瀬龍著、朝日ソノラマ、1972年。ジュブナイル小説)
  • 『王妃マリー・アントワネット』 - 遠藤周作著、朝日新聞社 全3巻、1979年-1980年)。のち新潮文庫 全2巻
シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット: 平凡な女の肖像』を下敷きに、アントワネットの物語と、彼女との身分差に神の不公平を感じ憎しみを覚えたパン屋の女中の物語が並行して描かれる[165]。遠藤は池田理代子との対談で、ベルばら人気にあやかったと語っている[166]。

映画

舞台作品

ラジオドラマ

  • 『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。(声:ReeSya)、脚本・杉崎智介

漫画

  • 池田理代子『ベルサイユのばら』(1972年~) - ルイ15世末期からフランス革命前後までのベルサイユ宮殿を舞台とした漫画。
  • 原作:池田悦子 / 作画:あしべゆうほ『悪魔の花嫁』 - コミックス10巻に収録された「ギロチンが招いた女」で、アントワネットと彼女によく似た娼婦が神のお告げの言い伝えのある洞窟で出会い、その後、2人の運命が入れ替わって娼婦はフェルセンの良心と引き換えに王妃として死ぬ代償として彼に抱かれ、ギロチンで処刑される。そのため、アントワネットは名もない幽霊となってさ迷う。
  • 市川能里『マリー・アントワネット : 革命の犠牲となったフランス最後の王妃』 - 黒沢哲哉シナリオ、石井美樹子監修。2005年、小学館。[173]
  • 森園みるく『欲望の聖女 令嬢テレジア』 - 「女性セブン」(小学館)にて2007年より連載された[174]。単行本は全12巻。フランス革命初期からロベスピエール処刑までを舞台とした漫画。他の作品と違い、この作品ではアントワネットの悪行をメインに描いている。
  • にしうら染『踊る! アントワネットさま』 - 「まんがタイムスペシャル」(芳文社)で2011年から2014年まで連載された漫画。マリー・アントワネットの親友となった女流画家を主人公に、2人の友情を描いた作品。[175]
  • 惣領冬実『マリー・アントワネット』 - 「週刊モーニング」(講談社)で連載された漫画。史上初のヴェルサイユ宮殿による監修。
  • 坂本眞一『イノサン』(2013年~)-国王ルイ十六世やマリー・アントワネットの斬首刑の指揮を執った実在の死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンを主人公にしている。マリー・アントワネットはシャルル=アンリの妹・マリー=ジョセフの自由な生き様に憧れを抱く。
  • 山田せいこ『マリー・アントワネット』 - 石井美樹子監修。2014年、ポプラ社[176]
  • 乃木坂太郎『第3のギデオン』(2015年~)-18世紀のフランスで反政府運動をおこなう平民のギデオン・エーメがルイ16世夫妻と知り合い、交流を深めるが時代の波を止められず、フランス革命に至る動向が描かれる。
  • 上地優歩『マリ・アントワネット : 革命に散った悲劇の王妃』 - 長谷川まゆ帆監修。2018年、KADOKAWA。[177]
  • 磯見仁月『傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン』 - ローズ・ベルタンの生涯を取り扱った漫画。コミックス第3巻からマリー・アントワネットが登場する。
  • みやのはる『ラ・マキユーズ~ヴェルサイユの化粧師~』 - 『COMIC BRIDGE online』(KADOKAWA)で連載された漫画。コミックス第2巻から登場。過去のフランスにタイムスリップした主人公(化粧品開発の研究者)がマリア・テレジアの命令でオーストリアまで連行され、顔に傷を負ったアントワネットの治療にあたる[178]。
  • 小出よしと『悪役令嬢に転生したはずがマリー・アントワネットでした』-21世紀の現代人が悲劇の王妃マリー・アントワネット本人に転生してしまい、来るべき断頭台の最期を回避するべく奮闘する。
  • 原作:スカーレッドG / 作画:いの『ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい』 - 上述の小説のコミカライズ[179][180]。アントワネットが、現代日本男性が転生したルイ16世と共に政治改革に奮闘する。
  • 原作:西山暁之亮 / 作画:縞『パワー・アントワネット』 - スクウェア・エニックスマンガUP! / ガンガンコミックスUP!。上述の小説のコミカライズ[181]。
  • 花園あずき『四畳半王妃 ~マリー・アントワネット 転生王妃のやり直し~』 - 2023年、KADOKAWAシルフコミックス。アントワネットが、少女時代の姿で現代日本に転生してしまう[182]。
  • 歴史裁判〜その死罪、覆すなら賀倍まで〜(作:花形怜、画:有村雨)- 2025年、芳文社週刊漫画TIMES。歴史上の偉人の罪を現代の法で裁き直すという異色の法廷劇。アントワネットは、処刑された無念さから成仏できない原告として、第3エピソード(第9話から第15話)に登場。

アニメーション

  • 『ラ・セーヌの星』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。
  • 『ベルサイユのばら』 - 同名漫画のアニメ化作品。

ゲーム

楽曲

  • 『marie』- Aimerの楽曲。2019年に開催された「日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史」イメージソング。マリー・アントワネットを題材として書き下ろされた。[183]。

関連項目

脚注

外部リンク

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