ヴァルター・ヘーンドルフ

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ヴァルター・ヘーンドルフドイツ語: Walter Höhndorf1892年11月10日 - 1917年9月5日)は、ドイツ飛行士軍人。最終階級は陸軍少尉。試験飛行士航空機の設計・製造技術者を務め、「飛行士の先駆者」の一人として知られる。

第一次世界大戦では12機を撃墜し、ドイツ帝国陸軍航空隊英語版エース・パイロットとなった。12機のうち、編隊飛行中に撃墜したものは1機のみである。残りは全て、砲兵指揮や敵陣偵察での飛行中に達成された[1]

前半生

ヴァルター・ヘーンドルフは、1892年11月10日プロイセン王国プリュツケドイツ語版で生まれた。親は学校の教員であり[2]、彼は幼いころから工学技術や動力装置などに興味を抱いていた。1913年にはパリへ赴き、航空機の操縦などを学んでいる[1]。帰国後の11月3日、彼はヨハニスタール飛行場で飛行士証明書第582号を受け、正規の飛行士になった[3]。この頃、彼はドイツで曲技飛行の先駆者として名が知られるようになり、テルトードイツ語版のウニオン航空機製造会社で航空機の設計や製造を手伝い始めた[1][3]

第一次世界大戦

AEG D.I

第一次世界大戦が勃発すると、ヘーンドルフは航空隊に志願した[1]。彼は1915年3月15日に少尉へ任官された[2]が、その年は大半をジーメンス=シュッケルト社英語版の試験飛行士として過ごしている。1915年末、彼に第12野戦飛行分遣隊英語版の単座戦闘機が割り当てられ、1916年1月12日にはフランスヴォワザンを撃墜する初戦果を上げた。1月19日にもヴォワザンを撃墜している。一時的に第67野戦飛行分遣隊へ配属されたが、同年4月には単座戦闘機部隊・ファウクスポーランド語版に異動した[2]。ファウクスでは、4月10日から7月19日の約3か月間で7機のフランス軍航空機を撃墜した。この戦功により、ヘーンドルフは7月20日プール・ル・メリット勲章を受章した[4]。7月にはさらに2機の撃墜を記録し、総撃墜数は11機に到達した。8月23日、彼は第1戦闘中隊英語版所属となる。9月17日にはさらにもう1機の撃墜を記録したが、これが彼にとって最後の勝利となった[1]

第4戦闘中隊英語版に異動すると、ヘーンドルフは試験飛行士の任務に戻り、ヴァランシエンヌなどで試験飛行を行った。1917年8月15日、彼は第14戦闘中隊英語版の指揮官に就任したが、9月5日に試験飛行中の事故で死亡した。航空事故を起こしたその搭乗機は、ヘーンドルフが設計したAEG D.I英語版だった[1][2]

叙勲

脚注

参考文献

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