ヴァルドゲス・スレニャンツ
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当時ロシア帝国の領土であった現ジョージアの南部、アハルツィヘで聖職者の家に生まれた[3][4]。1868年に家族とクリミアのシンフェロポリに移った。家族はシンフェロポリで暮らすアルメニア系の海洋画家、イヴァン・アイヴァゾフスキーと親しくなり、ヴァルトゲス・スレニャンツはアイヴァゾフスキーの家族と旅をし、アイヴァゾフスキーに絵の才能を認められた[5]。モスクワのアルメニア語の教育もする学校(Lazarev Institute of Oriental Languages)で学び[3]、1875年に奨学金を受けて、モスクワ絵画・彫刻・建築学校に1876年に入学し、1879年に卒業した[6]。1878年に奨学金の期限が終了した後、父親はミュンヘン工科大学に進学させたが、1880年の学生展で大作が売れた後2年生で工科大学を退学し、ミュンヘン美術院に入学し、ドイツの画家オットー・ツァイト(Otto Zeyt)に学び1885年に卒業した。
1881年にイタリアに旅し、ヴェネツィア近郊にあるサン・ラッザロ・デッリ・アルメーニ島(San Lazzaro degli Armeni)を訪れ、アルメニア系カトリックの修道院のライブラリーでアルメニアの美術やアルメニアの写本を研究した。「Patmutiun Hayots(アルメニア史)」を執筆した修道士のミカエル・チャムチアン(Mikayel Chamchian: 1738-1823)の肖像画を描き、1883年にアルメニアの新聞「Meghu Hayastani」に「"A Few Words about Armenian Architecture」という記事を書いた。
1885年から1887年にはロシアの東洋学者ヴァレンチン・ジューコフスキー(Valentin Zhukovsky)が率いるタブリーズ、テヘラン、イスファハーン、シラーズといったペルシャの都市の調査に同行した[3][4] 。1890年から1891年の間は現アルメニア、エチミアジンのゲヴォルキア神学校(Gevorgian Seminary)で美術史を教えた[7][8]。
1892年に、モスクワに移り活動し[3] 、1901年にバクーで展覧会を開いた。このころイヴァン・アイヴァゾフスキーの胸像彫刻も制作した。
第一次世界大戦中に起こったオスマン帝国によるアルメニア人虐殺が起こると、スレニアントはロシア領アルメニアに避難した生存者の絵を数多く描いた[9]。1916年に現ジョージアのトビリシに移り、マルティロス・サリアンやパノス・テルレメジアン(Panos Terlemezian)といった芸術家とアルメニア芸術協会(Armenian Artistic Society)を設立した[8][10]。
1917年、ヤルタに新しく建てられたアルメニア教会(Saint Hripsime Church of Yalta)の装飾を描く依頼を受け、制作中に病気に悩まされるようになったが祭壇や壁画、天井画を描いた[11]。1921年にヤルタで亡くなった。