ロシア、ロストフ州のロストフ・ナ・ドヌで生まれた[1]。トルコのアニに出自を持つアルメニア人の両親のもとで生まれ、1895年に学校を卒業した後、郵便局に就職し、自由時間に独学で絵を描き始めると、家族は趣味を支援し、モスクワで絵を学ばせることにした。1897年に、モスクワ絵画・彫刻・建築学校の入学試験に合格し、1903年まで学び[2]、ヴァレンティン・セローフとコンスタンチン・コローヴィンの指導を受けた[3]。ウラジーミル・ポロビンキン(Владимиром Половинкиным)、クジマ・ペトロフ=ヴォートキン、ニコライ・サプノフ、パベル・クズネツォフ、ピョートル・ウトキンらと友人になった。1900年から作品展に参加しはじめ、1901年から1904年にかけて、歴史的なアルメニア地域への旅をはじめ[3]、ロリ地方やシラク地方、エチミアジン、ハグパット、サナヒン、エレバン、セヴァン湖を訪れた。
1903年から1907年にかけて、水彩画制作に取り組み、作品を、モスクワ絵画・彫刻・建築学校の卒業生を中心とする美術家グループが1904年にサラトフで開いた「赤いバラ(Алая роза)」展に出展し、その後も様々な展覧会に出展した。1912年にはロンドンのグラフトン・ギャラリーで開かれたポスト印象派の第2回展覧会にも出展した。1915年にトルコ領アルメニアからの難民を助けるため活動した。1916年に現ジョージアのトビリシを訪れ、アルメニア人の作家G.アガヤン(Ghazaros Aghayan)の娘と結婚した。
1917年の10月革命後、ロシアに戻り[1]、1921年以降、家族と共に現アルメニアのエレバンに住み、アルメニア・ソビエト社会主義共和国の紋章と最初の旗をデザインした[4]。その後、ヨーロッパやソ連各地を頻繁に旅し、各地で作品を展示した。1926年から1928年の間はパリで活動したがこの時期の作品のほとんどは、帰路の船上で火災に遭い、焼失した。
数々の賞を受賞し、アルメニア文化の復興に貢献した。エレバンの芸術アカデミーと国立博物館の設立に貢献し、国立博物館の美術部門の館長も務めた[5].。1967年には、エレバンの自宅が博物館に改装された。
1972年にエレバンで亡くなった。