カザフ・ソビエト社会主義共和国のクズロルダ出身の朝鮮人(いわゆる高麗人)エンジニアの父と、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国レニングラード(現:サンクトペテルブルク)出身のロシア人教師の母を両親の間にレニングラードに生まれる。
アルバート通りの「ツォイ・ウォール」
ツォイは1974年から2つの美術学校に通ったが、1979年に成績不振で放校になっている。その後入学したSGPTU-61で木工職人の技術を習得し卒業。日本の根付を彫刻で制作したり、ロバート・プラントなどの西側ミュージシャンの肖像画を描き闇市で販売するなどして収入を得る。ウクライナのキエフで不法就労し強制送還されたこともある。
17歳から作詞を始め、ミハイル・ボヤルスキーやヴラジーミル・ヴィソツキーといった歌手のほか、ブルース・リーのファンだった。
1982年にキノー(映画の意)を結成しアンダーグラウンドで活動。ソ連唯一のレコード会社「メロディヤ」との契約が無かったため非公式、未検閲での活動であったがリリースする作品は大ヒットとなり、他国の慈善企画などにも招待される。
1985年、妻・マリアナとの間に息子のアレクサンドルが誕生。マリアナによると生活は苦しく、ツォイ一家はボイラー室に住み、ウエディングドレスを買う余裕もなかったという。一家が住んでいたボイラー室は「カムチャツカ」と名付けられ、聖地化している。
1987年に映画「ASSA」に本人役でカメオ出演、1988年には映画「針」に初主演。このころからキノーの人気が過熱していく。
1990年4月末から5月上旬にかけての3日間、日本を訪問した。日本では、サザンオールスターズのライブに招待され、桑田佳祐とも面会している。サザンの所属するアミューズがキノーとサザンオールスターズのワールドツアーを計画していたとも言われる[1]。
1990年8月15日、トゥクムス(現在はラトビア国内)にて交通事故死。28歳没。