ヴィットーリオ・アメデーオ1世

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ヴィットーリオ・アメデーオ1世とその家族

ヴィットーリオ・アメデーオ1世・ディ・サヴォイアVittorio Amedeo I di Savoia, 1587年5月8日 - 1637年10月7日[1])は、サヴォイア公サルッツォ侯ピエモンテ公アオスタ伯、モーリエンヌ伯、ニース伯、キプロス王エルサレム王(在位:1630年 - 1637年)。カルロ・エマヌエーレ1世の子。フランス語名ヴィクトル・アメデ1世・ド・サヴォワVictor Amédée Ier de Savoie)。

跡を継いだのは、息子のフランチェスコ・ジャチントカルロ・エマヌエーレ2世の2人であった。ヴィットーリオ・アメデーオの男系子孫は1831年にカルロ・フェリーチェの死により断絶した。そのため、イタリア王は弟カリニャーノ公トンマーゾ・フランチェスコの子孫である。

ヴィットーリオ・アメデーオは、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世スペイン王フェリペ2世の娘カタリーナ・ミカエラの次男としてトリノで生まれた。幼少期の多くを祖父フェリペ2世の宮廷があるマドリードで過ごし、1598年にフェリペ2世が崩御する11歳までマドリードに留まった。公爵の次男であったため、サヴォイア公位を継承するとは予想されていなかった。しかし、1605年に兄フィリッポ・エマヌエーレが死去したことで状況は一変し、ヴィットーリオ・アメデーオはサヴォイア公国の推定相続人となった。

ヴィットーリオ・アメデーオは、1630年の父の死後にサヴォイア公位を継承した。父カルロ・エマヌエーレの政策によりフランスとスペインとの関係が不安定なものとなっており、公国を守るために軍隊が必要とされた。傭兵を雇ったり、現地兵士を訓練したりする資金が不足していたため、ヴィットーリオ・アメデーオはスペインと和平条約を締結した。

チェラスコ条約により、サヴォイアはピネローロをフランスに割譲せざるを得なくなった。これにより、フランスはサヴォイア領の中心部、ひいてはイタリア全土への戦略的なルートを手に入れた。サヴォイアの支配者たちはこの損失を恨み、数十年にわたりその奪還を目指して尽力した[2]。 その後、リシュリュー枢機卿の指揮の下、ヴィットーリオ・アマデーオはイタリア国内に反スペイン同盟を結成しようと試みた。ヴィットーリオ・アメデーオはスペイン軍に対して2度の勝利を収めた。

1637年9月25日、ヴィットーリオ・アメデーオはレディギエール公シャルル1世・ド・クレキ主催の晩餐会の後、病に倒れた。晩餐会に出席していたサヴォイアの貴族(アウグスト・マンフレード・スカリア・ディ・ヴェルーア伯爵)も同じ週に亡くなり、毒殺の疑いが持ち上がり、サヴォイアとフランスの関係に影を差した[3]。ヴィットーリオ・アメデーオはヴェルチェッリに運ばれ、10月7日に50歳で亡くなった。最初は長男フランチェスコ・ジャチントが跡を継いだが翌年に亡くなり、次男カルロ・エマヌエーレ2世が公位を継承した。

結婚と子女

脚注

参考文献

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