ヴィーンヌィツャ
ウクライナの都市
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ヴィーンヌィツャ(ウクライナ語: Вінниця [ˈʋinːɪtsʲɐ] (
音声ファイル))はウクライナのヴィーンヌィツャ州ヴィーンヌィツャ地区にある都市。ヴィーンヌィツャ州の州庁所在地である。南ブーフ川の河岸に位置する。面積は113.2 km2[5]。人口は356,625人(2024年)、人口密度は3290人/km2[4]。歴史的なポディーリャ地域最大の都市であり、経済・文化の中心地として知られる[6]。ヴィンニツャとも表記される。
| ヴィーンヌィツャ Вінниця | |||||
|---|---|---|---|---|---|
サヴォイ・ホテル | |||||
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| 愛称 : ポディーリャの真珠 | |||||
| 位置 | |||||
| [[ファイル: | 250px|ヴィーンヌィツャ の位置図]] | |||||
| 座標 : 北緯49度14分14秒 東経28度28分2秒 | |||||
| 歴史 | |||||
| 市制施行 | 1795年 | ||||
| 創建 | 1355年 | ||||
| 行政 | |||||
| 国 | |||||
| 州 | ヴィーンヌィツャ州 | ||||
| 地区 | ヴィーンヌィツャ地区 | ||||
| 市 | ヴィーンヌィツャ | ||||
| 市長 | セルヒイ・モルフノフ[1] (フロイスマンのウクライナ戦略[2]) | ||||
| 地理 | |||||
| 面積 | |||||
| 市域 | 113.2[3] km2 | ||||
| 人口 | |||||
| 人口 | (2024年現在) | ||||
| 市域 | 356303[4]人 | ||||
| 人口密度 | 3290[4]人/km2 | ||||
| その他 | |||||
| 等時帯 | EET (UTC+2) | ||||
| 夏時間 | EEST (UTC+3) | ||||
| 市外局番 | +380-432 | ||||
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| 公式ウェブサイト : vmr | |||||
ヴィーンヌィツャは1355年に創建された。1640年に自治権を獲得した。1795年に市制施行された[7]。
市内ではヴィーンヌィツャ駅がある。首都キーウまでの直線距離は199 kmであるが、鉄道で221 km、車道で246 kmとなっている[8]。ヴィーンヌィツャの日は、9月の第3の日曜日となっている[9]。
位置
気候
歴史
現在ヴィーンヌィツャとなっている近辺への入植は、10世紀半ばには行われていた。この時期にウーリチ人やチーベレツ人が入植し、キエフ・ルーシを構成する国家となった[15]。その後、この国はジョチ・ウルスのもとにあったハールィチ・ヴォルィーニ大公国に服属した。
1362年、アルギルダス大公率いるリトアニア大公国軍がタタール軍を駆逐すると、一帯は同国の統治下に入った。アルギルダスの甥たちは同地に新たな要塞都市の建設を始め、これがのちのヴィーンヌィツャのもととなった。これについては、1363年の記録が最古の言及文書となっている[16]。
1648年7月7日、ボフダン・フメリニツキーの軍勢がヴィーンヌィツャに入った。フメリニツキーの側近マクスィム・クルィヴォニースは、この地にカリヌィーク連隊(ヴィーンヌィツャ連隊)を置いた[18]。
ウクライナがポーランド王国の支配から脱した17世紀にあって、ヴィーンヌィツャの市民も1651年9月に独立を手にした。このとき、3千のコサック部隊を率いたイヴァーン・ボフーンが2万からなるポーランド王国軍を破った[19]。1643年から1653年の間、ヴィンヌィーツャはボフダン・フメリニツキーの訪問を受けた。1653年から1667年の間、ヴィーンヌィツャはヘーチマン国家の領域に収められた。
その後、ポーランド分割の行われた1795年にヴィーンヌィツャは正式に都市となった。19世紀、ヴィーンヌィツャは経済的にも発展を遂げた。1871年にはキエフ=バールタ鉄道が開通した。1914年には、ヴィーンヌィツャはポヂーリャ県の行政中心都市となった[20]。

1917年にロシア革命が勃発すると、この年から1920年の間、ヴィーンヌィツャは内戦の嵐に巻き込まれた。この地は、ロシア内戦、ウクライナ内戦、ポーランド・ソヴィエト戦争、ウクライナ・ソヴィエト戦争の戦場となった。ヴィーンヌィツャには、労働者及び兵士代表革命委員会の政府の他、オーストリア・ハンガリー帝国軍やアントーン・デニーキン将軍の本営が置かれた。またこの間にはホテル「サヴォーイ」にウクライナ人民共和国の暫定政府が置かれたこともあった。内戦は、結局ボリシェヴィキとポーランドがウクライナを二分する形で終結した[21]。
ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国がソ連に加盟したのち、1923年にはヴィーンヌィツャはこの地方の中心都市となった。1931年からは、現在に到るまでヴィーンヌィツャ州の州庁所在地となっている。
1937年から1938年にかけてのソ連の大粛清の時代にはヴィーンヌィツャ大虐殺が起き、1万人弱の市民が大量虐殺に遭った[22]。
大祖国戦争の間に、人口は10万から2万7千にまで減少した。特に、1943年にはナチス・ドイツ軍によって大量虐殺が行われた[23]。
1991年のウクライナの独立に伴い、都市の公式の名称はそれまでのロシア語名ヴィーンニツァからウクライナ語名ヴィーンヌィツャへと変更された[24]。
最近の出来事
2022年のロシアのウクライナ侵攻では、ヴィーンヌィツャ市中心部がロシアのミサイル攻撃を受け、27人が死亡、80人が負傷した[25]。2023年には、ヴィーンヌィツャがEUに代表事務所を開設し、ウクライナの地方自治体として4番目の事例となった[26]。
軍事
交通
- ヴィーンヌィツャ市電:市内の主要な公共交通手段で、6路線が運行されている[30]。
- ヴィーンヌィツャ鉄道駅:ウクライナ南西部鉄道の一部で、国際列車も停車[31]。
- ハヴリシウカ・ヴィーンヌィツャ国際空港:市郊外に位置する軍民共用空港[32]。
