ヴラジスラフ・ホダセヴィチ
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ヴラジスラフ・フェリツィアーノヴィチ・ホダセヴィチ | |
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Владислав Фелицианович Ходасевич | |
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| 生誕 |
1886年5月28日(ユリウス暦5月16日) |
| 死没 |
1939年6月14日(53歳没) |
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| 職業 | 詩人・文芸評論家 |
ヴラジスラフ・フェリツィアーノヴィチ・ホダセヴィチ(ロシア語: Владисла́в Фелициа́нович Ходасе́вич、1886年5月28日〈ユリウス暦5月16日〉 - 1939年6月14日)は、ロシアの詩人。文芸評論家、文学史家、回想記作者としても知られる。ロシア革命を機に亡命した後は、ベルリンやパリの亡命ロシア文壇で活動した。姓は、ホダセーヴィチと翻字される場合もある。
ポーランド士族(シュラフタ)の末裔である父親と、ユダヤ人の母親のもと、モスクワに生まれる[1]。民族的にはロシア人ではないが、ロシア国籍を有し、執筆にもロシア語を用いた。モスクワ大学法学部に入学し、歴史・文献学部に転部ののち、学費未納のため退学[2]。1904年、ワレリー・ブリューソフの誘いでロシア象徴主義運動に加わり、詩作を開始。第一次世界大戦(1914年 - 1918年)やロシア革命(1917年)の前後から、独自の詩風を確立した。
哲学的洞察とヒューマニズムの視点から戦時下・革命下のモスクワの日々をうたう詩集『穀粒の道を』(1920年)や、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)移住後の思索の深化を反映する詩集『重い竪琴』(1922年)により、文名を不動のものにする。ボリシェヴィキ政権による言論統制を避けて、1922年に新進の女性作家 ニーナ・ベルベーロヴァとともに出国した後は生涯帰国せず、ベルリンやプラハ、ソレントなどを経て、最終的にパリに亡命した。

亡命下の悲哀や、両大戦間期の西欧社会の欺瞞を主なテーマとする詩集『ヨーロッパの夜』(1927年)をパリで発表した後はほとんど詩を書かず、亡命ロシア文壇の重鎮として文芸評論や評伝、回想記を旺盛に執筆した。パリ時代の活動として、亡命ロシア人作家ウラジーミル・ナボコフとの交友や[3][4]、亡命ロシア文学の未来をめぐるゲオルギー・アダモーヴィチとの文学論争が特筆される。1939年に肝癌のため死去し、パリ近郊ビヤンクール(現ブローニュ=ビヤンクール)に埋葬された[5]。