ヴラド・フィラト
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ヤシ大学
| ヴラド・フィラト Vlad Filat | |
|---|---|
![]() ヴラド・フィラト(2010年) | |
| 生年月日 | 1969年5月6日(56歳) |
| 出生地 |
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| 出身校 |
キシナウ高等技工学校 ヤシ大学 |
| 所属政党 |
モルドバ民主党(1997年 - 2007年) 民主主義・改革同盟(1998年 - 1999年) モルドバ自由民主党(2007年 – ) 欧州統合同盟(2009年 – ) |
| 配偶者 |
サンダ・フィラト(2012年まで) アンジェラ・ゴンザ(2014年 - ) |
| 公式サイト | PLDM - PRIMA PAGINĂ |
| 在任期間 | 2009年9月25日 - 2013年4月25日 |
| 大統領 |
ミハイ・ギンプ(代行) マリアン・ルプ(代行) ニコライ・チモフチ |
| 在任期間 | 2010年12月28日 - 12月30日 |
| 在任期間 | 2005年3月24日 - 2010年2月19日 |
| 在任期間 | 1999年3月12日 - 11月12日 |
| 首相 | イオン・ストゥルザ |
ヴラド・フィラト(モルドバ語: Vlad Filat、1969年5月6日 - )は、モルドバの政治家。2009年から2013年まで、同国首相を務めた。
モルダビア・ソビエト社会主義共和国ラプシュナで、マリアとヴァシーレ・フィラトの第二子として生まれる。きょうだいのイオン、アラ、ヴァレンティーナとともに、ラプシュナの「タルチョツ」と呼ばれる地区で育つ。1986年、地元の高校を卒業。同校のラジオ局に勤め、翌年兵役に就いた。兵役は1987年5月8日から1989年8月15日におよび、シンフェローポリとセヴァストーポリで勤務した。
1989年から翌年にキシナウの職業高校で学び、さらに1990年から1994年まで、アレクサンドル・ヨアン・クザ大学(通称:ヤシ大学)で法学を学んだ。大学在学中は、ルーマニアにおけるモルドバ人学生組織「ルーマニアのベッサラビア出身学生連盟」のリーダーになった。同級生には、彼の内閣で司法相を務めたアレクサンドル・タナセがいる。妻のサンダとは1991年秋に出会い、わずか3ヶ月で結婚した。
1994年から1998年にかけて、ルーマニアで幅広い事業を興し、展開した。1994年から1997年までヤシのロモルド・トレーディングSRL理事長を、1997年から1998年まで同じくヤシのドソフテイ社経営会議議長を歴任した。
政治活動
1997年の設立から2007年まで、フィラトはモルドバ民主党に所属した。1998年にモルドバに帰国すると、当時のモルドバ政府の経済・改革省から民営化・国有財産管理局の局長に抜てきされた。1999年3月12日から11月12日まで、民主主義・改革同盟のイオン・ストゥルザ内閣で閣僚を務めた。2000年には民主党副代表に選ばれた。
2005年の国会議員選挙で、フィラトは国会議員に当選した。それから2009年3月まで、彼は安全保障・公共秩序・防衛委員会副委員長を務めた。またEU・モルドバ国会協力委員会委員でもあった。
2007年にはキシナウ市長選に出馬するも、得票率は8.32%で4位に終わった。その直後の2007年9月、彼は10年間所属した民主党を離党、新しくモルドバ自由民主党を立ち上げ、その代表になった。自由民主党は2009年4月の議会選で15議席、さらに同年7月の議会選で18議席を獲得し、国内で第二党、欧州統合同盟内では第一党にまで躍進した。選挙後の2009年8月8日、フィラトはミハイ・ギンプやマリアン・ルプ、セラフィム・ウレケアンとともに欧州統合同盟を結成した。
首相職
2009年9月17日、モルドバ憲法裁判所は首相指名権を持つミハイ・ギンプ大統領代行の辞任を承認した。同日、ギンプはフィラトを首相に指名する布告に署名した。国会は組閣を許可した。草案では大臣数を据え置く一方で、その職名や職掌が変更されていた[1]。欧州統合同盟は9月25日の全体会議で、フィラト新内閣の信任投票を行った。
2013年3月8日、国会はフィラト首相に提出された問責決議案を可決し、解任した。憲法裁判所は4月22日、フィラト以外で暫定首相を立てるように命じ、4月25日にユリエ・レアンカが着任した。
