一柳直郷 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代中期生誕 宝暦6年(1756年)[1]死没 文化4年7月17日(1807年8月20日)[1]別名 献吉[2][1] 凡例一柳 直郷時代 江戸時代中期生誕 宝暦6年(1756年)[1]死没 文化4年7月17日(1807年8月20日)[1]別名 献吉[2][1]戒名 霊光院殿荊山宗璞禅定門[1]墓所 東京都港区の金地院[1]幕府 江戸幕府 火事場見廻役氏族 一柳氏父母 父:阿部正韶養父:一柳直住妻 正室:一柳直住の養女(一柳寛直の娘)子 直敬テンプレートを表示 一柳 直郷(ひとつやなぎ なおさと)は、江戸時代中期の旗本。通称は献吉。江戸幕府の火事場見廻役を務めた。旗本寄合一柳家(播磨高木陣屋5000石[注釈 1])の、『寛政重修諸家譜』編纂時点での当主である。 実父は阿部正韶。安永2年(1773年)、一柳直住の末期養子として迎えられ、18歳で家督を継ぐ[2]。正室の実父は、一柳家先々代当主(直住の養父)である一柳寛直で、直住正室の妹にあたり、直住の養女として直郷に嫁いでおり[3]、直郷は直住の婿養子の形式をとっている[1]。 安永4年(1775年)、徳川家治に初謁[2]。寛政9年(1797年)、火事場見廻役を務める[2]。 文化4年(1807年)、52歳で没[1]。家督は子の一柳直敬(『寛政譜』には「順之助」として載る[2])が継いだ[1]。 備考 能書家として知られる小松藩主一柳直卿(一柳頼徳)は、しばしば「直郷」と誤記される[注釈 2]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『寛永譜』では5000石とある[2]。『一柳家史紀要』によれば、播磨に移された一柳直増以来5250石であるという[1]。 ↑ 一例として、「小松藩主の一柳直郷公」と記す愛媛県のサイト[4]。 出典 1 2 3 4 5 6 7 8 9 一柳貞吉 1933, p. 31. 1 2 3 4 5 6 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.158、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.158。 ↑ 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.157-158、『新訂寛政重修諸家譜 第十』pp.157-158。 ↑ “惟る御生涯や萩の露 虚子”. 吟行ナビえひめ. 愛媛県. 2021年9月12日閲覧。 参考文献 『寛政重修諸家譜』巻第六百三 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年) 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192151。 Related Articles