一誠堂書店
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| 種類 | 合名会社 |
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| 本店所在地 |
〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-7 |
| 設立 | 1903年6月 |
| 業種 | 小売業 |
| 外部リンク | https://www.isseido-books.co.jp/ |
一誠堂書店(いっせいどうしょてん)は、東京都千代田区にある書店。八木書店など、一誠堂での従業員を経て独立した古書店が神保町一帯に多くある。
酒井宇吉が1903年(明治36年)に郷里の新潟県長岡市で、貸し本業・雑誌文具の取次ぎを営む酒井書店として創業。1906年(明治39年)に神田猿楽町に移転し、古書店となる。1913年(大正2年)の三崎大火で被災し、現在の所在地に移転するとともに一誠堂に改名する。神保町古書店街を代表する古書店のひとつとして知られる。芥川龍之介、永井荷風、山本有三などが常連で訪れており、徳富蘇峰は「近世日本国民史」に使用する史料を購入していた[1]。そのほか、松本清張や井上靖なども利用していた[1]。
酒井書店時代
一誠堂の創業者・酒井宇吉は1887年(明治20年)、酒井嘉四郎とスワの四男として、越後長岡千手町で生まれる。
1899年(明治32年)、博文館(長岡出身の大橋佐平が明治20年に創業)で働く兄(三男)・福次のつてを頼りに、数え13歳で上京。表神保町の東京堂に入社し、見習い書店員として働き始める。宇吉は書店業の出発点となった東京堂への感謝を生涯忘れず、東京堂とつきあったという。 [2]
1936年(明治36年)6月、東京堂を退社して兄・福次とともに長岡に帰った宇吉は貸本屋・雑誌文具の取り次ぎを業務とする酒井書店を開業(17歳)。
1906年(明治39年)10月、兄福次と共に再び上京し酒井書店を神田猿楽町に構える(20歳)。当初は新本・雑誌を扱うが、その後古本屋へと切り替え、弟助治(五男)も上京し、商売が軌道に乗る[2]。
1911年(明治44年)、兄弟3人で財産を清算し、それぞれに独立した。宇吉はひとり立ちし神保町に古書店を開業。兄福次は芳文堂、十字屋書店をともに神保町に興す[3]。
「一誠堂」への改名
1913年(大正2年)2月19日の神田の大火により全焼したが、すぐさま本郷の中華料理店で床店を借りて商売を再開。同年5月28日に神保町に新店舗を開き看板を「一誠堂」とした[3]。
「一誠堂」の店名は軍人勅諭にある「一の誠心こそ大切なれ」に由来する[4]。
大火により大学、専門学校、各種学校も焼失し書物が不足、意欲と資金のある古書店に古書の注文が殺到し、一誠堂はおおいに躍進することとなった[5]。
関東大震災を経て
大正中期には市街電車に沿って新しい古書店街が発達し学生街でもある神保町は大学や高等教育機関の拡充などの好影響を受けていたが[6]、そんな中に突如として関東震災が発生した。神田書店街の店舗は大量の書物を扱うために耐震力の弱いものも多く、一瞬にして崩壊した店も多い[7]。この震災では保険金がほとんど支払われず[8]また多くの人足が東京の他地域での復興に駆り出されたため罹災者は資金的にも復興の労働力も困難を極めた。
一誠堂では店が全滅したものの従業員や家族に怪我はなく[9]、店主の宇吉は避難先の長岡から単独で東京へと戻り、被災後16日目には業界を先駆けて商売を再開した。
これが本に飢える消費者に刺さり『灰の中の古本屋のテント』と評判になり雑誌や新聞に紹介された。一誠堂は故郷が越後長岡にあり兄弟も本屋を経営していたため、震災後の有力な補給基地になることができた[10]。
大震災では印刷所も設備をやられ新刊書が途絶えた時期がある[11]。このときに古本に対する需要が急激に増加して、今までにない層が古書店街に殺到した。政府の復興計画にも支持されたこの流れは日本では空前となる古本ブームと言われ、仕入れ資金の余裕があり投機に対して強気な者が有利な時期が大正14年後ごろまで続いた[12]。各種教育機関や公官庁などが大量の買い手となりバブル景気を支えた[13]。一誠堂はこの機会に店売り、納入、古書即売店などで活躍し、名声を高めた[14]。
震災をきっかけとして古本業の立ち位置も変化した。火災による影響でそれまでの本がすべて絶版本になり、和書などは特に入手困難となったため、それまでは「他者から仕入れた本を安値にして売る卑しい業者」とも取られていた古本業者が、「文化性の高い、貴重な本をも扱う商人」として地位を向上させた[15]。