万人坑

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南京大虐殺記念館"万人坑"遺祉 遺骨

万人坑(まんにんこう)とは、旧満洲を中心とする中国各地に存在する集団墓地・死体捨て場の遺構である。万人塚中国語版とも。歴史的に、大規模な戦乱、虐殺、飢饉、疫病、自然災害等によって作られてきた。

現代の中国では日本支配や日中戦争と関連して語られ、戦闘や虐殺被害者の死体を集団埋葬したもの、日本の支配下の鉱山や工事現場での死者を埋葬したり、あるいは使い物にならなくなった中国人労働者を生き埋めにした「ヒト捨て場」とされているものがある[1][2]。 中国語の「坑」は「生き埋め」の意味があり、また被葬者が多数であるとして「万人」坑という。

日本では、1971年、本多勝一による朝日新聞中国の旅』連載で取り上げられ知られるようになった。

中国では歴史的に大規模な戦乱、虐殺、飢饉、疫病、自然災害などの大量死による万人坑が多数存在する。

李秉剛(リ・ビンガン)[注 1]は、日本が関係した万人坑について以下の三種類の原因を挙げている。

  1. 平頂山事件のように戦争や戦闘の延長線上にあるような日本軍による虐殺。
  2. 炭鉱や金属鉱山等で強制労働させられ、安全性無視あるいは劣悪な労働・衛生条件・酷使・虐待等による異状死。
  3. ダムや要塞建設等の大規模土木工事の強制労働による異状死及び機密保持のための完成後の鏖殺。[注 2][3]


日本において万人坑は、1971年(昭和46年)、本多勝一朝日新聞での連載「中国の旅」で取り上げられ知られるようになった。連載では、撫順炭鉱などで栄養失調やケガ、病気などで使い物ならなくなった労働者が生き埋めにされ多数の犠牲者が出たとし、犠牲者が埋められたとする場所を万人坑という名の「ヒト捨て場」であるとした。連載で取り上げた南満鉱業の「万人坑」の上に記念館が建設され、累々とした白骨遺体が展示、公開された。以降、毎日新聞などで同様の報道が続き、後に削除されたが日本の高校用歴史教科書にも一時掲載されるに至った[4]

関係者による事実無根との抗議が朝日新聞社などに寄せられ、1990年から『正論』などにおいて『中国の旅』を批判する田辺敏雄・鉱山関係者の団体と本多勝一との間で事実関係を巡る論争があった。 1991年、満鉄東京撫順会と南満鉱業社友会は調査の上、記事に虚偽が含まれるとして、朝日新聞へ記事の取消しと『中国の旅』廃刊を求める申し入れを行った[5]

中国では近年、万人坑の発掘が進み、発掘された多数の遺骨を陳列したり、発掘途中の状態で展示する記念館が多数建設され、代表的なものは国家愛国心教育実証基地中国語版に指定されている。

論争の経過

朝日新聞『中国の旅』連載

1971年、本多勝一記者が朝日新聞「中国の旅」第2部「万人坑」として連載する。連載では、南満洲鉄道が経営していた撫順炭坑(遼寧省撫順)と南満洲鉱業(南満鉱業)が経営していたマグネサイト鉱山(同省大石橋)に存在するという"万人坑"を取り上げた[1]。"万人坑"とされる場所の一つを訪れた本多は、「私はまだ、ナチがやったアウシュビッツ殺人工場の現場を見たことはない。だからこの万人坑のような恐ろしい光景は、生涯で初めてだった」との感想を述べた[1][6]

満鉄関係者の抗議と本多勝一との論争

連載直後、南満鉱業社友会代表者が朝日新聞社を訪れ、記事取り消しを求めて抗議したが、門前払いであったという[7][8]。また、撫順炭鉱の電気技師だった久野健太郎が「万人坑、防疫惨殺事件は事実無根である」と自著を添えて抗議の書簡を送ったところ、本多は1986年3月に「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば中国側に直接やっていただけませんでしょうか」[9]と返答した[8]

万人坑は歴史的事実として百科事典[注 3]、教科書(後に削除)[注 4]、日教組教研集会[12]にも登場した。万人坑に疑問を抱いた田辺敏雄は、撫順炭鉱42人、南満鉱業13人、大石橋関係9人に調査をおこない、彼の心証からは「万人坑はなかった」との結論が出たとして、1990年『正論』に調査結果を公表する[13][6]。『正論』翌月号に、本多による「反論ではなくコメント」が掲載される[14]。万人坑はないという本多は田辺の調査結果に対し「少数のアンケートで断定するのはおかしい」と反論した[6]。翌々月の『正論』には、南満鉱業の元社員5名による座談会「私たちは万人坑なんて知らない」が掲載された[15]。田辺敏雄は、学者、研究者、作家で、日本側関係者を調査した者は誰一人いない、それで中国側の話を鵜呑みにするのはジャーナリストや学者のあり方としておかしいと批判する[16]

撫順炭鉱関係者でつくる「満鉄東京撫順会」(以下「東京撫順会」。[17]は、会員(約1,000人)全員にアンケート調査をおこない、455人から返信があり、その結果、「強制労働による犠牲者の“人捨て場”としての万人坑がなかったことがはっきりした」と結論[6]し、1990年12月に産経新聞が要旨を報じた[18]。内訳は、431人(94.7%)が「見たことも聞いたこともない」、10人が白紙、12人が「見たことはないが、聞いたことはある」、1人が「見た」、1人が「アンケートそのものに反対」であったとする。東京撫順会は「見たことはないが、聞いたことはある」と「見た」を重視し、これらを再調査したところ、「聞いた」はほとんどが中国側から後日聞いたとか、墓所や事故現場のことではないか、平頂山事件の勘違いではないかというものであった、「見た」は付近の集落の死体捨て場ではないかというものであったとする[19]

また、田辺はまとまった死体のあった場所として、匪賊の処刑された跡ではないかと思われるものがあったとし[20]、後には、例えばハルピンの貧民街近辺の市立貧民義地(共同墓地)に行き倒れの麻薬中毒者や凍死者等の引き取り手のない死体が処分される万人坑があり、問題の万人坑とはこういった共同墓地のことだったのではないかとしている[20]


『中国の旅』廃刊を求める申入れ

千人アンケート調査の結果をうけて東京撫順会は1991年4月25日、南満鉱業社友会は同5月、「作り話等が歴史的事実として確定してしまうおそれがある」「事実であるかのごとき報道をされたままでは、同僚に対して、また国民に対し申し訳がたちません」として関連記述の削除と『中国の旅』廃刊を求める申入れを行った[5]

撫順炭鉱申入書
  1. 『中国の旅』所載の「撫順炭鉱」「防疫惨殺事件」「万人坑」は作り話、あるいは著しく事実と相違したものを、あたかも事実であるかのように記述したのは誤りであったこと、したがってその記述を全部を取り消す旨、朝日新聞に公告すること。
  2. 現在販売中の単行本、文庫本を回収すること。刊行を続ける場合は、「撫順炭鉱」「防疫惨殺事件」ならびに「万人坑」に関する記述を削除したものにすること。
  3. 『中国の旅』以外の刊行物中、撫順炭鉱ならびに右記両事件に関する記述のあるものは、前項と同様の措置をすること。
  4. 『中国の日本軍』について、2項と同じ措置をすること[21]
南満鉱業社友会申入書
  1. 「中国の旅」の連載のうち、「万人坑」として報道された部分を、一般読者が明白に分かるよう相当なスペースをもって、全文削除すること、ならびに謝罪を含む訂正文を朝日新聞紙上に掲載すること。
  2. 単行本、文庫本は直ちに廃刊とし、速やかに流通在庫の回収をはかること。
  3. もし、要求が受け入れらないとするならば、「万人坑」報道に誤りがなかったという見解になる。この場合、その根拠を示して欲しいこと。また、日本側のどこを調査し、そのような結論に達したかも合わせて回答して欲しい[22]

これに対し朝日新聞は6月17日付で、中国側証言を覆す確固たる証言が得られていない、(日本でなく中国での)精密な現地調査を考えている、求めに答えられない等とする回答を行った[23]

その後

1991年11月12日付朝日新聞夕刊は、新たな万人坑の存在を報じた[24]。 新たな老頭溝万人坑報道[24]では、沈東剣教授[注 5]により、1940年に石炭1万トン当たり労働者死亡数が25.8人に上ったという[注 6]報道がなされた[注 7]

朝日新聞社より1995年に『本多勝一集』が刊行され、第14巻に『中国の旅』も収録された[26]

日本側の証言例

自身が満洲の採炭所に勤めていた経験を持つ五味川純平は、1955年に小説『人間の条件』を出版した。ここには、満洲の炭鉱での中国人の劣悪な労働条件と、その中でも特殊工人と呼ばれる人々への残酷な対応が描かれ、これは実態を基にしたモデル小説と受けとめられた。三一新書版だけで発行部数は450万部を超え、単行本などを加えると1千万部を超える空前の超ロングセラーとなり、映画化もされ、その映画もヒットした。

「20年余り[注 8]電気技術者として撫順炭鉱に勤務した久野健太郎[8]は、電力設備をはじめ電柱1本にいたるまでが管理責任にあった。送電線新設の際には、現地測量、架設工事に従事した。「この間、文字通り山、谷、川を徒渉してきたが、金輪際”万人坑”なるものはなかった」と断言した」とする[27]。また、南満鉱業社友会から紹介され会った3人は、いずれも、万人坑を全面否定し、工人に対する残虐行為などとんでもないときっぱり否定し、「中国の旅」連載を知っていた2人は、怒りを隠そうとしなかった」と田辺に述べたという[7]

上羽修は、1993年出版の著書『中国人強制連行の軌跡』で、鉱警隊員(補助警察官の資格を持つ武装警備員)として恒山採炭所(黒竜江省鶏西)の訓練所の一つに務めていた者にインタビューし、その結果を載せている。その話によれば、鉱警隊員は軍刀、ピストル、小銃の携帯が許されていて、日本人20人余りとその4~5倍の雇われた満人で幾つかの採炭所と水源地、火薬庫、倉庫等の警備にあたっていた、収容者から聞いた話として彼らは単に浮浪者狩りで連れて来られた[28]、炭鉱では収容後に逃亡する者がいても銃撃は許されなかった、食物は十分な量が出ていた、収容期間は2、3年でまじめに働けば短縮された、家族が来て居ついた人間もいるという。一方で、病気になると横着病と言われて仮病扱いされていたこと、休むと賃金が全くなくなり支給以外の食物購入ができなくなることや、都合が悪い質問になると証言者の口が重くなったことを報告している。また、同鉱業所はシュブントウ(投降匪の大物である謝文東の可能性もあるが、不明。)という者が把頭で、その配下の工人を理の通らないことでリンチにすればその人物が怒るため、リンチはなかったという証言をしている。それですら死亡率は10%と高く、証言者が賃金が出たのは初めだけとしており、多くが何らかの要因でじきに働けなくなると賃金が支払われなくなり、証言者は食事は出していたとするが、実際は十分なものではなく、栄養不足から衰弱して死んでいったのではないかと、上羽は疑っている。また、オオカミの群れがすぐそばに出没するような場所で、凍死の危険の高い極寒の2月でさえ、工人らが隙さえあれば、なぜ脱走を図ろうとするのかを聞くと、証言者は単に、工人自身にとっては不本意な仕事であったこと、自由がなかったことを挙げたが、上羽は理由として薄弱とみている。反面、野晒しの白骨が近辺に多かったものの、それは寧ろ先のシュブントウの配下の多かった坑道側に多かったことで、これは現地人らに火葬の習慣がないため、薄い棺による土葬・風葬の結果としてオオカミなどに荒らされて、そうなったのではないかと上羽は推測している。逆に、証言者の鉱警員管理の坑道側に焼却施設があり、オオカミが死体をあさらないよう焼いていたとのではないかとの証言に対し、上羽は、何のためにわざわざ焼却施設を用意したのか、疑念を抱いている。動けなくなった人間を病院や医者にかからせることはなかったとの証言も聞き、死ぬまできちんとした対応を取っていたのか、上羽は疑っている。そういった質問に入ると、証言者は彼らの立場からの都合に合わせた推測による回答ばかりで、結局、実態は自分らの知ることではないといった状態であった。しかし、取材対象者は収容所管理者ではなく警備員であるため、その理由や内部の状況については彼ら自身も分からず、はっきりした回答が出来ないのはやむをえないと、そのインタビューでの真相追及を上羽は断念している。[28]

内モンゴルのハイラルでは1934年からソ連軍進攻に備えた工事が行われ、その際徴用された者らが工事後殺害され、その万人坑があると現地住民から聞いた読売新聞の記者が、その場所に市職員に案内してもらって行き、遺棄された人骨が未だに点々と転がっていたことを確認している[29]。同所あるいは少なくとも近辺の同様な場所と思われる地域に青木茂は調査チームの一員として行き、同行した医師から特に人骨ではないといった異存は出なかったこと、遺骨のあり様が現地の風葬の習慣に則ったものではなかったことを証言している。その一方で、彼自身が掘り返してみたわけではなく、見た限りでは、例えば針金で縛られていたとかいった風に、明らかに殺害以外ありえないと言うことが出来るものはなかったとしている[30]

太平洋戦争後、東京裁判に備え連合軍の国際検事局の尋問を受けた陸軍元兵務局長であった田中隆吉は、1934年から1941年(1945年とした箇所もあり)にかけて満洲国境に要塞を建設した際、工事に多数の人々が使用され、10万人が殺されたこと、満洲匪賊や中国正規兵の捕虜(工人としては、戦争捕虜による特殊工人の扱いとなる)が毒ガスで実験目的で多数殺され、その多くが要塞建設に使用された後、用がなくなった人々だと考えていることを証言した[31]。捜査課長のロイ・モーガンは、これを彼の調査結果ではなく聞き及んだことと彼自身の所見に過ぎないとし、これに関し、粟屋憲太郎は日本軍の毒ガス使用について(冷戦下での成果利用と秘密保持のため)免責方針を取ったため、モーガンは突き放したのだとする[32]。実際にこの時の田中証言は彼の他の証言に比べ異様に短く、尋問開始時刻が記されているだけで、他の証言には必ず記載されている終了時刻の記載がなく、また、要塞建設地が今日知られている場所と異なっている等の奇妙な点が多い。実際には長時間行われ、毒ガスという秘密に属する事項が絡んでいたため、いろいろ書かれなかったことやすり替えられた内容があった可能性もある。また、東京裁判では語られなかったが、満洲の虎頭要塞の建設では多くの中国人労働者が動員され、小屋には二千人が居住していたが、(完成後、口封じに)日本人憲兵によって虐殺されたとの田中の証言もある[31]


コレラ事件(防疫惨殺事件)

大同炭鉱の中国人証言者は、1942年(昭和17年)コレラが流行し、死者が続出、万人坑に捨てられたと証言している[33]

本多勝一『中国の旅』で紹介される、撫順炭鉱の龍鳳採炭所で起きたとされる「防疫惨殺事件」[注 9]は、中国側証言では1942年夏の出来事としている[19]溥儀の自伝『わが半生』も最初の事件発生は1942年と記す[35]。一方で、撫順炭鉱「防疫の思い出」はコレラ発生を1943年と記しており[36]、大同炭鉱の日本側関係者もコレラ発生は1943年に間違いない、犠牲者は埋葬したと話す[37]。「満洲日日新聞」も1943年でコレラ発生を報じており[注 10]、1942年に同新聞のコレラ記事は見当たらない[35]。田辺敏雄は、こうした証言におけるコレラ事件が発生したとされる年数の違いにつき、撫順炭鉱(満洲)と大同炭鉱(華北)の中国側証言者が同じ間違いを犯しているのは偶然なのかと疑問を呈し、中国共産党の上層部の組織的な意思、関与のもと、溥儀の自伝をタネに、撫順炭鉱と大同炭鉱でのコレラ事件が捏造されたと主張している[37]


中国などの主張による「万人坑」

日本軍関係

要塞建設工事関係

民間企業関係

関連文献

本多勝一

中国の旅朝日新聞社、1972年。ISBN 978-4022539847 

『中国の日本軍』創樹社、1972年。 

正論

  • 田辺敏雄「朝日・本多勝一記者の誤報」『正論 1990年8月号』、産業経済新聞社、1990年8月。 
  • 本多勝一「『朝日・本多勝一記者の誤報』という”誤報”」『正論 1990年9月号』、産業経済新聞社、1990年9月。 
  • 田辺敏雄「重ねて言う、万人坑はなかった」『正論 1990年10月号』、産業経済新聞社、1990年10月。 
  • 田辺敏雄「「中国の旅」批判 ヒト捨て場「万人坑」は存在しなかった」『正論 2014年12月特別増刊号』515増刊、産業経済新聞社、2014年12月、95-109頁、NAID 40020227502 


脚注

関連項目

外部リンク

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