三井殊法

From Wikipedia, the free encyclopedia

三井 殊法(みつい しゅほう、1590年天正18年) - 1676年10月16日延宝4年9月9日))は、江戸時代の女性商人である。殊法とは法体の名。本名は不明。三井家(のちの三井財閥)の遠祖。「前垂れ商法(まえだれしょうほう)」の元祖といわれる。

殊法は伊勢国多気郡丹生村(現 三重県多気町)で永井左兵衛の子として生まれた。永井家は屋号を角屋とする地元の豪商であった。

本名が伝えられていないが、これは殊法が後年、仏道に帰依し信心を怠らず、法号をもって通称とし、本名をはぶいたのでは、とされる。

1602年慶長7年)、殊法13歳で、伊勢国松阪(現 三重県松阪市)の三井家に嫁ぐ。夫は三井則兵衛高俊。近江国鯰江(現 滋賀県東近江市附近)の元城主・三井越後守高安の長子としてこのとき22歳であった。

三井家は、高安の代で、武家から町家に転向し、質屋や酒・味噌の販売をおこなっていた。越後屋(のちの三越)の屋号はここから由来するといわれている。

殊法は、夫高俊が、かなてより父高安から武士の訓育を受け、町人の気質に疎いことを気にかけ、家業の今後を深く案じ、自ら商売の道をつくって子どもにその作法を教え、実践したとされる。殊法が夫に変わり、家業の商売一切を取り仕切ることで、家業の立直しが図られた。そして、夫との間に4男4女をもうけ、そのうち四男が八郎兵衛高利(三井高利)である。

殊法は子どもたちに江戸京都大阪呉服両替の商売を興させ、これがのちの三井家の祖となる。1676年10月16日(延宝4年9月9日)、殊法87歳で没する。戒名は「智光院殿華月殊法大姉」。松阪の来迎寺に葬る。

人物・エピソード

参考文献

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI