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三代目大谷鬼次の江戸兵衛

東洲斎写楽の浮世絵のひとつ From Wikipedia, the free encyclopedia

三代目大谷鬼次の江戸兵衛(さんだいめおおたにおにじのえどべえ)は、東洲斎写楽が寛政6年(1794年)に制作した大判錦絵の役者絵である。同年5月に河原崎座で上演された歌舞伎狂言『恋女房染分手綱』に取材し、三代目大谷鬼次が演じた江戸兵衛を描いている[1]。版元は蔦屋重三郎である[2]。

製作年寛政6年(1794年)
種類大判錦絵(役者絵・大首絵)
素材紙、墨・色彩・雲母
概要 作者, 製作年 ...
『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』
メトロポリタン美術館所蔵本
作者東洲斎写楽
製作年寛政6年(1794年)
種類大判錦絵(役者絵・大首絵)
素材紙、墨・色彩・雲母
寸法38.1 cm × 25.1 cm (15.0 in × 9.9 in)
所蔵メトロポリタン美術館
登録JP2822
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本作は、写楽が活動を開始した寛政6年5月に発表した第1期の役者大首絵28種の一つであり、写楽の代表作の一つに位置づけられている[3]。顎を突き出して下方からにらみ上げる表情、乱れた髪、前方へ開いた両手によって、初代市川男女蔵演じる奴一平を襲う江戸兵衛の姿を表している[4]。写楽は一平を描いた「初代市川男女蔵の奴一平」も同じ第1期に制作しており、両図は構図上、連続して鑑賞されるよう構想されたと考えられている[3]。

本作は従来「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」とも呼ばれてきた。しかし、東京国立博物館は現存する台本や同興行の番付を検討し、江戸兵衛は鷲塚八平次の家来ではなく、役名にも「奴」が付されていないことから、「奴江戸兵衛」という呼称は誤りとしている[5]。一方、東京国立博物館所蔵本は、同館所蔵の第1期作品27枚からなる「版画寛政六年五月興行江戸三座役者似顔絵」の一部として重要文化財に一括指定されており、文化財指定上の個別名称は「大谷鬼次の奴江戸兵衛図」である[2][1]。

制作背景

写楽の第1期作品

東洲斎写楽は、寛政6年(1794年)5月から翌寛政7年(1795年)1月までの約10か月間に、140点を超える版画作品を発表した。作品はすべて蔦屋重三郎を版元として出版されている。写楽の作品は、制作時期と作風の推移から、一般に第1期から第4期までに区分される[2][5]。

第1期にあたる寛政6年5月には、江戸三座の夏興行に出演した役者を描く大判の役者大首絵28種が版行された。本作はそのうち、河原崎座で上演された『恋女房染分手綱』に取材した一図である。東京国立博物館は第1期28種のうち27種を所蔵し、「版画寛政六年五月興行江戸三座役者似顔絵」の名称で一括して重要文化財に指定されている[2]。

第1期作品では、役者の顔から上半身を画面いっぱいに捉え、雲母の粉を用いた黒雲母摺の背景の前に人物を浮かび上がらせる構成が用いられた。役者の容貌を理想化せず、顔立ちや表情、身振りを誇張して、演じる役の性格と役者本人の個性を表そうとした点に特色がある[6][7]。

千葉市美術館は、活動を始めたばかりの写楽が、大判の雲母摺という上製の錦絵をほぼ同時に28図も発表したことを、新人絵師として異例の扱いであったとしている。また、その背景として、版元である蔦屋重三郎による意欲的な出版企画、または有力な支援者の存在を想定する見解を紹介している[3]。

河原崎座の『恋女房染分手綱』

『恋女房染分手綱』は、由留木家のお家騒動を背景として、その家臣である伊達与作と腰元重の井、二人の間に生まれた三吉をめぐる物語を描く人形浄瑠璃・歌舞伎の作品である。本作が取材した興行は、寛政6年5月5日から江戸の河原崎座で上演された[3]。

物語では、伊達与作が主家の若君のために預かっていた金を鷲塚八平次らに奪われ、重の井との密通も発覚したことから、主家を追放される。重の井の父である能役者・竹村定之進は責任を取って切腹し、重の井はのちに姫君の乳母となる。一方、与作と重の井の子である三吉は馬子となり、母子が互いに名乗ることのできない「重の井子別れ」の場面へとつながる[1]。

本作が描くのは、三幕目の四条河原における襲撃の場面である。鷲塚八平次に頼まれた江戸兵衛が、初代市川男女蔵演じる奴一平を襲い、一平が所持していた公金を奪おうとする[1][3]。江戸兵衛は八平次に依頼されて襲撃に加担する人物であり、八平次に仕える奴僕ではない。一方の一平は伊達与作に仕える人物であるため、役名に「奴」が付けられている[5]。

写楽は、この場面に登場する一平を単独で描いた「初代市川男女蔵の奴一平」も同時に制作した。江戸兵衛と一平はそれぞれ独立した一枚の版画に描かれているが、人物の向き、視線、手の動きが互いに呼応しており、二図を並べることによって四条河原の襲撃場面が連続的に立ち現れるよう構成されている[3]。

三代目大谷鬼次

本作に描かれた三代目大谷鬼次は、宝暦11年(1761年)に生まれ、初名を大谷永助といった。のちに二代目大谷春次、三代目大谷鬼次を名乗り、寛政6年11月に二代目中村仲蔵を襲名した[8]。

河原崎座で『恋女房染分手綱』が上演された同年5月の時点では、まだ三代目大谷鬼次を名乗っていた。そのため、本作は、同人が二代目中村仲蔵を襲名する約半年前に演じた江戸兵衛の舞台姿を描いた作品にあたる。

写楽は二代目中村仲蔵の襲名後にも同人を描いており、二代目中村仲蔵が百姓土蔵実は惟高親王を演じる姿を描いた作品などが残されている[9]。本作は、写楽の短い活動期間中における役者の名跡の変化を確認できる作例ともなっている。

作品

構図と人物表現

本作は、江戸兵衛の顔から上半身を画面いっぱいに捉えた大首絵である。江戸兵衛が襲う奴一平や、物語の舞台となる四条河原の風景、舞台装置などは描かれていない。具体的な場面を示す要素を画面から排し、役者の顔貌、姿勢、手の動きだけによって襲撃の瞬間を表している。

江戸兵衛は身体をやや斜めに構え、顎を前方へ突き出しながら、下方から相手をにらみ上げるような表情を見せている。目尻はつり上がり、口は固く結ばれ、頬から顎にかけての輪郭は強く張り出している。こめかみには乱れた髪が垂れ、頭部から外側へ広がる髪の形も、人物の緊張と荒々しさを強調している[4][6]。

両手は胸の前から左右へ大きく開かれ、指を曲げながら、画面外にいる一平を捕らえようとするかのように差し出されている。東京国立博物館は、両手が身体との比例から見ると小さく、不自然にも見える一方、その不自然さがかえって江戸兵衛の殺気を生み出していると説明している[4]。顔に比べて小さく描かれた手と、誇張された指の動きによって、人物の身体が静止しているにもかかわらず、次の瞬間には相手へ飛びかかるような動勢が示されている。

メトロポリタン美術館は、斜め向きの顔、逆立つ髪、前方へ伸ばした両手が、江戸兵衛という役の非情な性格を表すとともに、この役を演じる三代目大谷鬼次自身の個性も示していると解説している[6]。写楽は役者を役柄の類型に当てはめて美化するのではなく、役者固有の顔立ちを残しながら、眉、目、口、髪、手などを誇張し、舞台上の人物像と役者本人の容貌を一つの画面に重ねている。

浅野秀剛は、写楽が主として顔の輪郭、目、鼻によって役者本人の個性を形づくり、口や眉、身振りを加えることによって役柄を表現したと指摘している。本作では、強く張った顎や目鼻立ちが三代目大谷鬼次の顔貌を示す一方、つり上がった目尻、固く結ばれた口、広げた手が江戸兵衛の攻撃性を表しており、役者の似顔と役柄の表現が重ね合わされている[7]。

衣装と色彩

江戸兵衛は、太い縞模様の衣装を身に着けている。衣装の縞は身体の曲面や姿勢に沿って湾曲し、胸元から両腕へ広がる線の動きが、左右に開かれた手の動きと呼応している。浅野は、この大胆な縞模様が悪役としての江戸兵衛の性格を強める一方、こめかみに垂れたほつれ髪が、人物の内面に繊細さや哀感を感じさせると解釈している[7]。

顔と両手には衣装より明るい色が置かれ、暗色の背景から浮かび上がるように表されている。画面下部から左右へ突き出された両手は、背景との明暗差によって輪郭が明確となり、鑑賞者の視線を顔から手へと導く。衣装の太い線、顔の輪郭、指の形が画面上で互いに連続し、人物の姿を一つの大きな形としてまとめている。

背景には具体的な景物を描かず、黒色の地に雲母を施す黒雲母摺が用いられている[10]。雲母の細かな粒子は光を反射し、見る角度や照明によって背景の輝きが変化する。現存する各所蔵本では、保存状態や光の当たり方によって背景の色調や光沢が異なって見える。

無地に近い雲母地には奥行きを示す風景や舞台装置がなく、江戸兵衛が立つ位置や一平との距離も具体的には示されていない。この空間の省略によって、人物は特定の舞台背景から切り離され、鑑賞者の前へ直接迫るように見える。雲母地は装飾的な背景であると同時に、役者の顔貌と演技を際立たせる画面装置として機能している。

版画技法

本作は、紙に墨と複数の色を摺り重ねた大判の多色摺木版画である。輪郭、髪、顔の細部、衣装の模様などを表す版と、それぞれの色を摺るための版を使い分け、一枚の紙へ順番に摺り重ねることによって制作された。メトロポリタン美術館は、同館所蔵本の材料を、紙に墨、色彩および白雲母を施した木版画としている[6]。

多色摺では、版ごとの位置がずれると、顔の輪郭、目鼻、衣装の模様などにもずれが生じる。そのため、版木に設けた見当を基準として、同じ紙を各版の同一位置に合わせながら摺る。錦絵の制作には、下絵を描く絵師のほか、下絵を版木へ彫る彫師、墨や色を紙へ摺る摺師、制作と出版を企画する版元が関わった。本作では写楽が絵を描き、蔦屋重三郎が版元を務めた。

東京国立博物館の教育普及資料では、本作は11枚の版を用いて色や雲母を摺り重ねたと説明されている[11]。複数の版によって、髪や顔の輪郭を示す線、肌、衣装、模様、背景などが順次加えられ、雲母の光沢を備えた画面が完成する。

アムステルダム国立美術館所蔵本は、灰色で摺られた主版、複数の色版、雲母を用いた木版画として登録されている[12]。雲母を施した暗い背景と、平滑な色面で表された顔、衣装、両手との材質感の違いが画面に変化を与えている。

第1期作品に採用された大判という判型と雲母摺は、一般的な細判の役者絵と比べて材料と工程を要する上製の仕様であった。千葉市美術館は、無名に近い新人絵師であった写楽が、この仕様による作品を一度に28図発表したことを異例としている[3]。本作の技法と材料は、人物表現の効果だけでなく、蔦屋重三郎が写楽の登場に際して行った出版企画の規模を示すものでもある。

「初代市川男女蔵の奴一平」との対構成

東洲斎写楽「初代市川男女蔵の奴一平」。江戸兵衛に襲われる一平を描く。

「初代市川男女蔵の奴一平」は、本作と同じ寛政6年5月の河原崎座興行に取材し、『恋女房染分手綱』三幕目の四条河原で江戸兵衛に襲われる奴一平を描いた大判の役者大首絵である。江戸兵衛と一平はそれぞれ別の版画として制作されたが、千葉市美術館は、両図の構図から、連続して鑑賞するように制作されたと考えられるとしている[3]。

本作の江戸兵衛が、顎を突き出して両手を前方へ広げ、相手へ迫ろうとする姿を見せるのに対し、一平は身体を後方へ引き、顔を江戸兵衛の側へ向けて襲撃に反応する姿で描かれている。両者の顔、肩、腕、視線の方向は互いに呼応し、二図を並べることによって、江戸兵衛が一平へ迫る場面が成立する。

東京国立博物館は、本作における顎を突き出した表情や下からにらみ上げる視線が、一平の図との対構成を意識したものであると説明している[4]。一平の図を伴わず本作だけを鑑賞した場合でも、江戸兵衛の視線と両手は画面外に相手が存在することを想像させる。一方、二図を並べると、各作品の画面外に置かれていた相手役が補われ、両者の対立関係がより明確になる。

両図は、一枚の画面または連続する紙面へ一体として摺られた続絵ではなく、それぞれ独立した一枚の版画である。そのため、作品形式として「二枚続」と断定することはできないが、同じ芝居の同じ場面に登場する攻撃側と被襲撃側を別々の大首絵に描き、並置した際に一つの場面が再構成されるよう設計された作品群とみることができる。

作品名

本作は、従来「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」「大谷鬼次の奴江戸兵衛」「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」などの名称でも知られてきた[13]。東京国立博物館所蔵本についても、e国宝では「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」の名称で掲載され、重要文化財指定上の個別名称は「大谷鬼次の奴江戸兵衛図」とされている[1]。一方、東京国立博物館の現在の収蔵品情報では、「奴」を付けない「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」が作品名として用いられている[4]。

「奴」は、近世に武家などに仕えて雑務を行った男性の奉公人を指し、歌舞伎の役名では主人に仕える人物であることを示す語として用いられた。本作と対をなす一平は伊達与作に仕える人物であり、当時の台本や番付でも「奴一平」と記されている。これに対して、江戸兵衛は鷲塚八平次に依頼されて一平を襲う人物であるが、八平次の家来として設定された人物ではない[5]。

東京国立博物館は、2011年(平成23年)に開催した特別展「写楽」に際して、従来の「奴江戸兵衛」という呼称を再検討した。同館が現存する『恋女房染分手綱』の台本を確認したところ、江戸兵衛は八平次から一平を襲い、金銭を奪うことを依頼された人物として登場し、八平次に仕える奴僕とはされていなかった。また、寛政6年5月の河原崎座興行に関する辻番付、役割番付、絵本番付のいずれでも、三代目大谷鬼次の役名は「江戸兵衛」と記され、「奴」の文字は付されていない[5]。

これらの資料に基づき、東京国立博物館は「奴江戸兵衛」という名称を誤りと判断し、現在は「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」を用いている[5][4]。同じ興行を直接示す番付や台本に基づいて役名を訂正したものであり、本記事名も同館の現行名称に従っている。

一方、1962年(昭和37年)に行われた重要文化財指定では、個別名称として「大谷鬼次の奴江戸兵衛図」が採用されている[1]。このため、現在の美術館における作品名と文化財指定上の名称とでは、「奴」の有無が異なっている。文化財指定名称は指定時の公的な名称として存続しており、作品の同定や文化財指定について述べる場合には、現行作品名と区別する必要がある。

海外の美術館でも、従来の名称に由来する作品名が用いられている。メトロポリタン美術館は本作を「Kabuki Actor Ōtani Oniji III as Yakko Edobei」として登録し、江戸兵衛を武家の奉公人として説明している[6]。大英博物館も三代目大谷鬼次が奉公人の江戸兵衛を演じる図として登録している[14]。これらは海外における作品名称の伝承を示すが、江戸兵衛の作中での身分については、番付と台本を調査した東京国立博物館の見解とは異なっている。

諸本と文化財指定

本作は木版による錦絵であるため、同じ図様の複数の摺りが現存している。東京国立博物館、千葉市美術館、メトロポリタン美術館、シカゴ美術館、大英博物館、アムステルダム国立美術館などが、それぞれ本作の摺りを所蔵している。

各所蔵本では、寸法、色彩、雲母の光沢、紙の保存状態などが一様ではない。各館が公表している寸法にも差があるため、本作の大きさを示す場合には、どの所蔵本の数値であるかを明らかにする必要がある。

東京国立博物館所蔵本

東京国立博物館所蔵本は、大判錦絵で、縦36.9センチメートル、横23.7センチメートルである。所蔵番号はA-10569-471で、同館の現在の収蔵品情報では「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」の名称で登録されている[4]。

同館所蔵本は、写楽が寛政6年5月の江戸三座の興行に取材して制作した第1期役者絵27枚からなる「版画寛政六年五月興行江戸三座役者似顔絵〈東州斎写楽筆/錦絵、竪大判〉」の一部として、重要文化財に指定されている[10]。

指定作品群は27枚で、都座の興行を描いた11枚、桐座の興行を描いた7枚、河原崎座の興行を描いた9枚からなる[10]。本作は河原崎座の興行を描いた9枚のうちの一枚であり、同じ場面の一平を描いた「市川男女蔵の奴一平図」も、この作品群に含まれている。一括指定における本作の個別名称は「大谷鬼次の奴江戸兵衛図」である[1]。

作品群は1962年(昭和37年)2月2日に重要文化財に指定された[10]。重要文化財の指定対象は、東京国立博物館が所蔵する特定の27枚であり、他館が所蔵する同じ図様の摺りは、この指定には含まれない。

国内外の主要所蔵本

千葉市美術館所蔵本は、大判錦絵で、縦35.4センチメートル、横24.0センチメートルである。所蔵番号は2043001で、2004年度(平成16年度)に購入された[3]。同館は本作を写楽のデビュー作にして代表作となったシリーズの一図と位置づけ、同じシリーズの一平の図と連続して鑑賞するよう制作されたと解説している[3]。

メトロポリタン美術館所蔵本は、縦38.1センチメートル、横25.1センチメートルで、紙に墨、色彩および白雲母を施した木版画として登録されている。ヘンリー・L・フィリップス(英語版)の遺贈により1939年に収蔵され、所蔵番号はJP2822である[6]。

シカゴ美術館所蔵本は、縦37.9センチメートル、横25.0センチメートルの大判多色摺木版画で、クラレンス・バッキンガム・コレクションに属する。所蔵番号は1934.207である[15]。

大英博物館所蔵本は、縦36.2センチメートル、横24.4センチメートルで、雲母地を備えた多色摺木版画として登録されている。所蔵番号は1909,0618,0.41で、外交官・日本研究者のアーネスト・サトウが旧蔵していた。大英博物館は1909年に美術商W・B・パターソンから同作を購入した[14]。同館は、指を広げて一平と対峙する舞台上の緊張を捉えた作品として紹介している。

アムステルダム国立美術館所蔵本は、縦38.1センチメートル、横24.9センチメートルで、所蔵番号はRP-P-1963-16である。同館は、灰色で摺られた主版と複数の色版、雲母を用いた木版画として登録し、作者を写楽、版元を蔦屋重三郎としている。1963年に購入された[12]。

これらの主要所蔵本だけでも、公表されている縦寸法は35.4センチメートルから38.1センチメートル、横寸法は23.7センチメートルから25.1センチメートルの範囲にある。同じ図様の作品であっても、収蔵品情報に示される寸法は所蔵本ごとに異なっている。

評価と受容

写楽の人物表現

本作は、写楽の第1期を代表する役者大首絵の一つと位置づけられている。千葉市美術館は、本作を写楽の「デビュー作にして代表作のシリーズ」の一図としている[3]。大英博物館は、写楽の第1期にあたる28図について、役者本人の個性と演じる役の性格を鋭く捉え、表現効果のために誇張した作品群と評価している[16]。

本作の評価の中心となっているのは、三代目大谷鬼次の容貌を理想化せず、役者本人の顔立ちと江戸兵衛という役の性格を結び付けた人物表現である。張り出した顎、つり上がった目、固く結んだ口、乱れた髪、前方へ差し出した両手は、単に役者の外見を再現するだけでなく、一平を襲おうとする人物の緊張と攻撃性を示している[4][6]。

身体に比して小さく描かれた両手、誇張された指の形、顔と身体の均衡を意図的に崩したような構成には、写実的な人体表現とは異なる独自性がある。東京国立博物館は、不自然にも見える両手が、かえって江戸兵衛の殺気を生み出していると説明している[4]。浅野は、本作の魅力を、人体の均整や写実の正確さだけでは測れない、見る者に強い印象を与える造形に見いだしている[7]。

顔の輪郭や目鼻には役者本人の個性が残される一方、眉、口、髪、手の身振りには演じる役の性格が強く表れている。これにより、本作は三代目大谷鬼次の似顔であると同時に、『恋女房染分手綱』における江戸兵衛の人物像を表す役者絵となっている。

大首絵という形式も人物表現の効果に関わっている。舞台上の全身像や背景を描かず、顔と上半身を大判の画面へ拡大したことにより、鑑賞者は役者の表情や手の動きと近い距離で向き合うことになる。暗い雲母地から浮かび上がる顔と両手は、舞台上の一場面を再現するというよりも、役者の演技と役柄の心理を凝縮した像として提示されている。

近世における評価

写楽の役者絵は、役者の容貌を美化せず、その特徴を誇張して描いた点で、同時期に制作された他の役者絵とは異なる性格を持っていた。大田南畝の『浮世絵類考』には、写楽が役者の似顔を描いたものの、「あまりに真を画かんとして」通常とは異なる姿に描いたため、長く流行せず短期間で制作をやめたという趣旨の記述がある[3]。

この記述は、写楽の写実的または誇張的な人物表現が、当時の役者絵の購買者に必ずしも受け入れられなかったことを示す資料として、しばしば引用されてきた。千葉市美術館も、写楽の個性的で誇張された表現が役者ファンの購買意欲を十分に得られず、短期間で浮世絵出版界から姿を消した可能性を示している[3]。

ただし、『浮世絵類考』の記述は写楽の活動全体について述べたものであり、本作単独の販売数や同時代の評判を直接記録したものではない。本作そのものが不評であったことや、写楽が活動を停止した理由を一つの原因だけで説明できることを示す史料ではないため、写楽の短い活動期間をめぐる後世の評価として区別する必要がある。

近代以後の再評価

写楽の作品は、近代に入ると浮世絵研究と海外収集の進展に伴って再評価された。1910年(明治43年)、ドイツの浮世絵研究者ユリウス・クルトは、写楽を主題とする研究書『Sharaku』を刊行した。東京国立博物館の2011年特別展「写楽」の展覧会概要は、この研究書の刊行を契機として、写楽の個性的な画風が世界的な注目を集めたとしている[17]。

クルト以前にも写楽の作品は国内外の収集家や研究者に知られていたが、同書は作品を体系的に紹介し、写楽を独立した研究対象として位置づけるうえで大きな役割を果たした。浅野は、刊行以前から写楽を知る者は存在したものの、同書によって写楽の知名度と評価が高まったと説明している[7]。

その後、本作の摺りは欧米の主要美術館へ収蔵され、海外における写楽の評価を示す代表的な作品となった。大英博物館は1909年、シカゴ美術館は1934年、メトロポリタン美術館は1939年、アムステルダム国立美術館は1963年に、それぞれ本作の摺りを収蔵している[14][15][6][12]。

東京国立博物館が2011年に開催した特別展「写楽」では、国内外から写楽の作品が集められ、同じ芝居や同じ役を描いた他の絵師の作品との比較を通じて、写楽の造形的な特色が検討された[5][18]。本作と「初代市川男女蔵の奴一平」も、作品名、演目上の場面、対構成を再検討する主要な作例となった。

このような近代以後の研究、収集、展覧会を通じて、本作は単に寛政期の歌舞伎興行を記録した役者絵にとどまらず、写楽の誇張的な人物表現、大首絵の構成、雲母摺の技法を象徴する作品として受容されてきた。今日では、写楽の名と結び付けて広く紹介される図様の一つとなっている。

脚注

参考文献

外部リンク

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