三升家小勝 (5代目)

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本名加藤 金之助
生年月日1858年7月16日
没年月日 (1939-05-24) 1939年5月24日(80歳没)
出身地日本の旗 日本
5代目 三升家みますや 小勝こかつ
5代目 三升家(みますや) 小勝(こかつ)
三升家小勝定紋「三升」
本名 加藤 金之助
生年月日 1858年7月16日
没年月日 (1939-05-24) 1939年5月24日(80歳没)
出身地 日本の旗 日本
師匠 4代目翁家さん馬
5代目林家正蔵
3代目鈴々舎馬風
初代蜃気楼龍玉
禽語楼小さん
3代目春風亭柳朝
名跡 1. 翁家さん八
(1873年 - ?)
2. 鈴々舎風鏡
(? - 1876年)
3. 柳家小蝠
(時期不明)
4. 桃多楼團語
(時期不明)
5. 春風亭燕柳
(? - 1903年)
6. 春風亭柳條
(1903年 - 1907年)
7. 5代目三升亭小勝
(1907年 - 1918年)
8. 5代目三升家小勝
(1918年 - 1939年)
活動期間 1873年 - 1939年
活動内容 落語
歌舞伎
所属 落語協会
備考
落語協会会長
(1926年 - 1939年)

5代目 三升家 小勝(みますや こかつ、1858年7月16日安政5年6月6日) - 1939年昭和14年)5月24日)は、明治大正昭和にかけて活躍した落語家[1]。本名∶加藤 金之助[1]。実子は三升家勝太郎(のち舞踊家に転じて若柳吉次郎)[2]

江戸・麻布に生まれ、父は元武士で「蓑守庵年雄」を名乗る俳人でもあった。幼いころに父が亡くなり、左官に奉公に出る。[要出典]数え年16歳の1873年4代目翁家さん馬に入門して翁家さん八と名乗るも、さん馬はその年に死去[1]。このため、地方巡業をしていた5代目林家正蔵の一座で怪談噺の幽霊役を務める[1]

東京に戻った後は3代目鈴々舎馬風門下に加わって風鏡を名乗り、後に初代蜃気楼龍玉門下に移った[1]

1876年に一時廃業して役者に転じ、中村梅三郎門下に入ってお女三(おめぞう)の名で役者になるも、落語家時代同様に地方廻り中心で嫌気がさしたため、正蔵と再会後に[要出典]落語家に復帰し、禽語楼小さん門下で柳家小蝠3代目春風亭柳朝門下で桃多楼團語と師匠を移った後、春風亭燕柳となった[1]。その後再び落語家を辞め、工場の監督や品川天王の禰宜(妻の縁による)といった職に就いた[1]1900年にはパリ万国博覧会に派遣された芸者の世話役として同行し、フランスまで赴いた[1]。肩書きは料理人だったという[要出典]

帰国後は再度落語家に復帰して3代目柳朝門下で燕柳に戻り、1903年ごろに[要出典]春風亭柳條に改名して真打昇進を果たした[1]1907年2月には5代目三升亭小勝を襲名[1]1918年ごろに[要出典]「三升亭」を「三升家」と変えた[1][注釈 1]

1926年には3代目柳家小さんの後任で東京落語協会(現・落語協会)3代目会長に就任した[1]

1938年末に心臓病が悪化し荒川区日暮里の自宅で療養生活となった。1939年4月頃には快癒したことから、鈴本演芸場で全快祝いの披露を兼ねた高座を勤めたが再び病気が悪化。[要出典]同年5月24日、自宅で死去した[3]。享年82(満80歳没)[3]。辞世の歌は「永々とご贔屓様となりました。ちょいとこちらで代わり合います」[要出典]

芸風・演目

滑稽噺にすぐれ、『素人鰻』『小粒』『立浪』『権助芝居』『片棒』『反魂香』『二十四孝』『三方一両損』『按摩小僧』などが得意演目で、『三国誌』『熊坂』といった地噺もよくした[1]。また、上方落語桂文屋が創作した『いらち車』を東京に移植して『反対車』にしたのは小勝とされる[4]。高座では毒舌なしゃべりで知られた[1]

大正から昭和にかけて多くのSPレコードを残している[要出典]。また『小勝新落語全集』(三芳屋、1915年)・『小勝特選落語集』(講談社、1937年)といった落語集が生前に刊行された[1]

弟子

脚注

参考文献

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