三原スヱ
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みはら スヱ 三原 スヱ | |
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『刑政』1954年7月号 | |
| 生誕 |
1903年9月1日 |
| 死没 |
1986年7月8日(82歳没) |
| 死因 | 心不全 |
| 国籍 |
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| 出身校 | 中央仏教学院 |
| 活動期間 | 1946年 - 1979年 |
| 時代 | 明治 - 昭和 |
| 著名な実績 | 約800人の少女たちの保護と更生 |
| 影響を受けたもの | 竹田敏彦 |
| 活動拠点 | 香川県丸亀市 丸亀少女の家 |
| 肩書き | 四国少年院分院 丸亀少女の家 分院長 → 丸亀少女の家 初代院長 |
| 任期 | 1951年4月1日 - 1964年3月31日 |
| 受賞 |
吉川英治文化賞(1971年) 丸亀市教育文化賞(1974年) 四国新聞社文化賞、香川県知事賞、山陽新聞社社会功労賞(1976年) |
三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日[1] - 1986年〈昭和61年〉7月8日[2])は、日本の社会事業家[3]。四国唯一の女子専門少年院「丸亀少女の家」(香川県丸亀市)の創設者にして初代院長である。終戦直後に戦災孤児の少女を引き取ったことを皮切りとして、私費を投じて更生施設として「少女の家」を開設、約800人の少女の保護と更生に尽くした。更生保護施設「和光園」により、出院後の少女たちのアフターケアにも努めた。晩年は研修宿泊施設「瀬戸青少年会館」を設立して、青少年育成のために尽力した。別表記は三原スエ[4]、三原すゑ[4]、三原寿恵など[5]。
誕生 - 丸亀へ
島根県益田町(現・益田市)で誕生した[3][注 1]。幼少時に両親が離別して、母子家庭に育った[7][8]。兄の尽力によって津和野高等女学校(現・島根県立津和野高等学校)へ進学した後に[7][8]、京都の社会奉仕団体である一燈園に学んだ[1]。さらに京都府社会教育課に勤務する傍らで、中央仏教学院にも学んで、部落解放問題に取り組んだ[9]。
1927年(昭和2年)、丸亀出身の僧侶である三原憲照と結婚した[1][8]。1933年(昭和8年)、夫が香川県の善照寺を継ぐことになったため、丸亀へ移住、讃岐人としての人生が始まった[9]。寺では三男四女を抱えて、寺の住職の妻として多忙な日々を過ごした[1]。
折しもこの1930年代は、満州事変や第一次上海事変の勃発といった非常時であり、仏教婦人会女子青年会の会員たちも国防婦人会に協力する身となった[1]。スヱもまた婦人会の先頭に立ち、昼夜を問わず銃後活動に勤しみ、「兵隊ばあさん」のあだ名で呼ばれるほどだった[9]。それだけに終戦と日本の敗戦は、スヱの胸に大きな穴をあけることとなった[9]。
戦後 - 社会事業へ
終戦の翌年の1946年(昭和21年)、スヱは丸亀駅で、ベンチでうずくまって寝ている少女を見つけた。スヱは同行している知人の反対を押し切って、その少女を寺へ連れ帰り、風呂に入れて、食事をさせた。この少女は戦争で家と家族を失った身の上であり、スヱはかつての戦争協力者として、皆の不幸は自分の罪と言い、しきりに少女に謝罪を続けた[10]。国防婦人会での活動に熱心に取り組んでいたことは、スヱにとって激しい後悔となり、その心からの反省が、戦後の活動の礎となっていた[1]。
それから間もなく、スヱの夫の学友である小説家の竹田敏彦が、高松少年審判所長の加藤實好を連れてスヱのもとを訪ね、戦災孤児や、非行に走った少年少女たちの救済活動の話をもちかけた[11]。加藤實好は少年審判所の所長として、少年の非行防止、不良化防止のための団体を構想していたところ、竹田敏彦の講演を聞いて感心し、自分の構想について相談して、相応しい協力者としてスヱに行き当たったのだった[12]。加藤の真剣な依頼に、スヱは「死んでつもりでやらせていただきます」と答えた[11]。加藤は、金銭的な援助が困難な旨も伝えたが、スヱはそれも承知の上だった[11]。
高松少年審判所が丸亀に置かれたこともあって[13]、翌1947年(昭和22年)、スヱ、武田敏彦、加藤實好の3人を発起人として、戦災孤児の荒れた生活の改善を目的とする民間団体「子供をよくする会」が結成された[12][14]。加藤が会長、竹田が顧問、スヱは常任幹事に就任し[12]、会員は医師、弁護士、教員らによって構成されていた[15]。これが後述する「丸亀少女の家」の前身となった[14]。
少女の家
スヱは、四国には四国少年院があるものの、女子の施設が無いことから、その必要性を痛感していた。このスヱの考えは多くの人の心を動かすこととなり、1948年(昭和23年)1月、少年保護団体「少女の家」が創設された[16]。非行少女の更生のための施設としては、全国初めての施設である[17]。建物は丸亀城の旧軍用倉庫を転用したもので[16]、建設費はスヱが私費をあてた[3]。 ここに預けられる少女たちは、身寄りのない者もいれば、罪をおかして裁判所から送られてきた者もいた[9]。
1949年(昭和24年)1月、旧少年法と矯正院法の廃止、および現行の少年法と旧少年院法の施行に伴って、少女の家は私設から法務所の管轄(国立)へ移管して[13][18]「四国少年院分院 丸亀少女の家」となり、スヱは分院長となった[19]。
移転
1950年(昭和25年)、丸亀市内の丸亀城の天守が重要文化財に指定された。このことで、少女の家を「不良少女の施設」と見なす人々から「重要文化財のある観光名所に不良少女の施設があるとはもってほか」との声が上がった[19]。
スヱはこのために同時期より、代替地を求めて奔走を始めた[19]。著作家の高村暢児によれば、スヱは目を血走らせて、「花嫁学校を作るのです、花嫁学校を!」と、うわ言のように口走りながら丸亀を走り回っていたという[20]。周囲からの印象を良くするために「花嫁学校」と偽ったのであり、スヱは嘘がばれたときは、いざとなれば首を吊って詫びる覚悟を決めていた[19][20]。
同1950年、平成期以降の「少女の家」の所在地でもある7千坪の地の確保に成功した。坪250円という安値であり、スヱの努力に加えて、「花嫁学校」との触れ込みが地主に好印象を与えたものと見られている。土地の購入が決定すると、法務省でも、予定外であった丸亀女子少年院の建設のための省内の予算が確保された[21]。
同1950年10月、スヱの最大の理解者であった夫の三原憲照は、この移転に関わるスヱの一連の努力を称えた直後に、脳溢血で急逝した[20][21]。
本院昇格
1951年(昭和26年)4月、「少女の家」は本院に昇格して「丸亀少女の家」となり、スヱが初代院長となった[21]。翌1951年(昭和26年)4月、「少女の家」は建坪7百数十坪におよぶ近代建築として完成した[20][21]。「少女の家」では格子を取り除いて、敢えて開放的な環境下で少女たちに更生を誓わせた。この方針には反対の声も多かったが、スヱは強い意志でこれを押し通した[22][23]。
1959年(昭和34年)、「少女の家」から更生した少女の1人が、会社員と結婚するにあたり、「少女の家」から輿入れすると言い切った[20][21]。奇しくもスヱの言葉「花嫁学校を作る」が、方便で終わらず現実となったのである[21]。高村暢児によればこのときのスヱは、意外な驚きとあまりの喜びで「涙で顔をくしゃくしゃにさせながら、わけもなく泣いた」という[20]。この時の婚礼の模様は、「少女の家」でスヱたちが新郎新婦を囲んだ姿として写真におさめられており、新婦から「少女の家」へ寄贈され、院長室へ保管された[21]。
和光園
スヱは1959年(昭和34年)より、身寄りのない少女たちのための施設を作るための活動を開始した。同1959年初頭、多度津町堀江の3400坪の土地を購入し、翌1960年(昭和35年)初頭、「和光園」が落成した[24]。これは、少年法により20歳で保護を打ち切られた少女たちの、それ以降の世話のための施設でもある[20]。スヱはここで、少女の家を仮出所した少女たちを引き受けて、就職や結婚の世話などを行ない[18][23]、結婚の仲人まで引き受けた[25]。1962年(昭和37年)には出院後の保護指導のための施設として「憩いの家」を設置し、成果を上げた[26]。
スヱはこれらの難事業を成し遂げた末に、同1964年3月31日、「少女の家」を定年退職した[24]。スヱが「少女の家」で保護と更生に携わった少女の数は、約800人に達した[3]。
1964年4月、それまでの功績を認められて、四国地方更生保護委員会の委員に任命された[18]。スヱにとってこれは身にあまるほどの高職であったが、法律の知識には素人同然といってよいほど疎かったことから、更生保護委員としての職務はかなりの重荷のようであり、法律の知識に長ける同僚たちの間で、情けない思いをすることもあった[24]。
これらの職務の傍らで、四国各地の少年院を訪ね歩き、挫折しかけた院生たちの更生のための努力を、1967年(昭和42年)3月まで続けた[18]。
晩年
1967年3月、四国地方更生保護委員会を退職した。その後は和光園理事長に就任、「少女の家」を仮出所した少女たちを引き受けて、就職の斡旋や、結婚の世話などに尽くした[18]。スヱは役職から離れて、少女たちを母親のように面倒を見ようと思っていたものの、世情の移り変わりに伴って少女の犯罪が変化し、少年院に収容されるほどの少女の非行も激減していた[24]。1970年(昭和45年)には利用者の減少により、和光園は閉鎖され[24]、同時期に「憩いの家」も廃止された[26]。
その後は一般の青少年育成の必要性を強く感じたことで、資金調達に奔走した末、1971年(昭和46年)、和光園の跡地に研修宿泊施設「瀬戸青少年会館」を設立して、理事長と館長を務めた[3][24]。この建設準備中には、和光園は更生保護施設のために法務省の管轄だが、青少年育成の会館は文部省の管轄となるために、県警省庁が変わってしまうという厄介な問題もあったが、スヱは持ち前の行動力で各省に何度も足を運び、その問題を解決した[24]。
以降のスヱは、青少年の健全育成のために尽力すると共に[22]、少女の家の篤志面接委員として、講演や執筆でも活動を続けた[2]。80歳を過ぎてもなお、その講話の内容は受講者に歓迎され、好評を博した[26]。苦労もあったものの、各地に散った元教え子から電話で声を届けてくれたときは、その苦労が吹き飛ぶほどの喜びであった[27]。
1979年(昭和54年)、発病のために「瀬戸青少年会館」理事長と館長を辞任した[2][28]。7年後の1986年(昭和61年)7月、丸亀市の麻田病院で、心不全のために満82歳で死去した[2][29]。
没後
1998年(平成10年)、スヱの三女で、「丸亀少女の家」に職員として勤務経験のある刑部サエ子により、私家版『希望の炎 絶やすまじ -三原スヱの生涯-[注 2]』が出版された[6]。題名の「希望の炎 絶やすまじ」とはスヱの座右の銘であり[30]、スヱは死去の直前にも、この言葉を表装して家族に託していた[31]。
2000年代以降、スヱの生涯は、少年院生活の紹と現代の非行問題への取り組みに関するシンポジウム「香川矯正展」[32]、自立の精神に満ちあふれた丸亀市ゆかりの女性たちを紹介する「輝く 丸亀の女性展」などで取り上げられた[33][34]。
2002年(平成14年)には、瀬戸青少年会館が、利用者数の減少や施設の老朽化を理由として同年度末で閉鎖[35]、同館を経営する財団法人・瀬戸青少年会館も解散することから、財団から「少女の家」へスヱの胸像の寄贈が決定[36][37]、同年7月に除幕式が行われた。「少女の家」で篤志面接員を務める丸亀市の彫刻家・大西康彦が手がけたもので、スヱの生き様を生徒たちに知らせるため、生徒がよく通る教育棟の前に設置された[38]。
瀬戸青少年会館は同2002年3月に閉鎖、財団も同月に解散した後、同2002年10月、財産処分で発生した1千万円が、土地や建物の売却分を国庫に納めず、青少年育成に役立てることを目的として、丸亀市に寄付された[35]。
交友関係
評価
香川県女子薬剤師会会長の古市千代は、スヱを「私の敬愛する三原スヱ氏」と呼んでおり、戦後の混乱期で非行化した少女たちと、苦楽を共にして茨の道を歩き続けた美徳ある女性として「香川の歴史に残さねばなりません」と述べている[45]。四国新聞論説委員の津森明も同様に、地道なボランティアを続けたスヱのことを、香川の乳児院「豊島神愛館」で1000人以上の戦災孤児や乳児たちを育てて児童福祉の基礎を築いた吉村静枝と共に「戦後史の中で忘れられない人」と語っている[46]。
高松矯正管区長の小畑輝海は、「少女の家」で多くの偉業を成し遂げて800人もの少女たちと向き合っただけでなく、多くの文化人と交流を持つことができたのは、スヱの深い愛情がなせることだと、高く評価している[31]。
元浪速少年院院長の菱田律子も同様に、スヱと「少女の家」が非常に多くの人々の理解と協力を得ていたことから、スヱを「情熱にあふれた行動力の人」「人間関係を築き、人を動かし、人を活かす、人間力の達人」と評価しており[30]、日本初の女性刑務所長である三田庸子と共に「朝ドラの主人公のような方々」と述べている[47]。
受賞歴
関連作品
1950年(昭和25年)、本院昇格前の施設をモデルとした小説『少女の家』(竹田敏彦著)が雑誌「少女」に連載された[48]。作中ではスヱも少年院院長として「三原スエ」の名で登場している[49]。この作品は日本全国的に好評を博して、不幸な主人公を憂う手紙、主人公の幸福を願う手紙が多数、全国の愛読者から寄せられた[48]。
1956年(昭和31年)、この小説を映画化した『何故彼女等はそうなったか』が公開され、当時の「少女の家」の施設も撮影に用いられた[21]。香川京子、池内淳子、浪花千栄子といった当代の人気女優が出演したことで[21]、少女の家の知名度は全国的に向上した[24]。浪花千栄子は「少女の家」で在院生への公演も行っており、その写真は「少女の家」に残されている[24]。