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国防婦人会

日本で戦時中に存在した婦人団体 From Wikipedia, the free encyclopedia

国防婦人会(こくぼうふじんかい、旧字体: 國防婦󠄁人會)は、1932年から1942年まで存在した日本の婦人団体。略称は「国婦」。割烹着と会の名を墨書した白タスキを会服として活動。出征兵士の見送りや慰問袋の作成など、銃後活動を行った。

会員数 792万9684人(1938年12月1日調べ)[1]
905万2932人(1940年12月)
概要 設立, 所在地 ...
大日本国防婦人会[1]
1938年10月撮影、靖国神社臨時大祭で参拝する会員
1938年10月撮影、靖国神社臨時大祭で参拝する会員
設立 1932年10月24日[2]
所在地 日本の旗 日本・東京府東京市牛込区若松町10番地[1]
会員数 792万9684人(1938年12月1日調べ)[1]
905万2932人(1940年12月)
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愛国婦人会と大日本国防婦人会のたすき(岡山県立博物館蔵)

概要

1931年(昭和6年)9月に満洲事変が、1932年(昭和7年)1月に上海事変が勃発した当時、大阪港の近所に住む主婦らが、出征兵士や応召のため帰郷する若者に湯茶を振舞ったのが活動の原点である。会の目的は「国防」、言い換えれば、「銃後」の戦争協力である。1932年に軍とは直接のつながりのない一般婦人があつまり「大阪国防婦人会」として発足。軍の支援を取り付けて「大日本国防婦人会」となり、全国に拡大。逆に軍は国婦を銃後の戦争協力や思想統制に利用した。

「国防は台所から」

国婦には「国防は台所から」というスローガンがあった。

国婦の初期には、婦人たちは割烹着のまま台所を出て街頭に繰り出し、さまざまな「国防」活動を行った。

  • 出征兵士の見送り
  • 留守家族の支援
  • 傷病兵や遺骨の出迎え
  • 慰問袋の調達と発送
  • 兵営や陸軍病院での洗濯
  • 防空演習

など。

一方、軍は婦人たちの協力を必要としながらも、彼女らが家庭を顧みなくなるまでの活動は歓迎せず、台所=家庭をしっかり守ることを期待した。

活動

主な活動は、出征軍人の駅での見送り、退役軍人あるいは遺骨の駅での出迎え、慰問袋の製作、出征軍人の家族や遺族への慰問、奉仕活動などである[3]。ただし、先に組織されていた愛国婦人会(1901年設立)と活動内容はほとんど重なっており、双方に加入している者もいた[3]。

会服

国防婦人会は割烹着にたすき掛けを会服とした。会の制服を割烹着に襷掛けという活動しやすいものに統一したのは創設者安田せいの夫、久吉の発案だったとも伝えられている[4]。

たすきは愛国婦人会も使用していたが、愛国婦人会では紺色の会服にたすきを左肩から右脇に掛けたのに対し、国防婦人会では割烹着にたすきを右肩から左脇に掛けるなど別団体としてそれぞれプライド意識があったとされる[3]。

資金

愛国婦人会が会員からの会費を主な活動資金としていたのに対し、国防婦人会は廃品交換や物品販売によって活動資金を得ていた[3]。

沿革

満州事変時、大阪・築港の天保山桟橋(第三突堤)は満州へ船舶で派遣される部隊の一大出征地であった[5]。大阪では出征する兵士の中には丁稚奉公などで故郷を離れ、家族の見送りもなく出征する兵士も多かった。1932年3月、大阪港の近所、市岡に住む主婦、安田せいと三谷英子がそれを気の毒がって中心となり、主婦らによって作られた[6]。大阪朝日新聞の大江素天のほか、港の見送りで親しくなった市岡警察署(戦後は港警察署)主任、憲兵特高課員らの協力を得て「大阪国防婦人会」として結成された。その後、軍部の強力な後押しを受けて、その年の10月には「大日本国防婦人会」が結成された[注釈 1][7]。舅・姑のもとで息苦しさを覚える主婦らにとって、大っぴらに家庭の外に出て家事からも解放される数少ない機会で、それゆえに普及したともいわれる[6]。

居住地単位や職場単位の分会方式で急速に会員を増やして全国に分会を持つにいたり、先に結成されていた愛国婦人会(内務省系、1901年 - 1942年、略称愛婦)や大日本連合婦人会(文部省系、1931年 - 1942年、略称連婦)をしのぐ大組織となっていった。1940年12月には、国婦総本部は会員数9,052,932人としている[8]。

しかし戦争が本格化すると、秘密保持のためとして出征兵士の見送りも制限されるようになっていき、防空演習や労力奉仕などでは割烹着の非活動性が批判をうけるようになり[9]、最終的に、割烹着はもんぺにとってかわられ、国婦は並立していた婦人団体、愛婦・連婦と統合され「大日本婦人会」(1942年 - 1945年、略称日婦)となった。

略年表

  • 1931年(昭和6年)9月、満洲事変勃発。
  • 1931年12月12日、井上中尉夫人自刃事件(陸軍歩兵第37連隊の井上清一中尉の妻・千代子が、満洲へ出征する夫へのはなむけに自らの首を切り付け自死した)[10]
  • 1932年(昭和7年)1月、上海事変勃発。
  • 1932年3月18日 - 大阪国防婦人会・発会式
  • 1932年10月27日 - 大日本国防婦人会・発会式(本部長:荒木貞夫陸軍大臣の妻[11])
  • 1932年12月13日 - 大日本国防婦人会関西本部・発会式[12]
  • 1934年(昭和9年)4月10日 - 大日本国防婦人会総本部・設立総会[13](会長:武藤能婦子、陸軍大将武藤信義の妻[2])
  • 1934年9月21日に起きた関西風水害(室戸台風)では総動員体制で積極的な救援活動を行う[14]。
  • 1937年(昭和12年)3月1日 - 国防婦人会館(大日本国防婦人会関西本部会館)・落成式[15]
  • 1937年7月7日 - 盧溝橋事件・日中戦争激化へ
  • 1938年(昭和13年)4月3日 - 大日本国防婦人会満洲地方本部を改組し「満洲国防婦人会」が発会[1]。
  • 1940年(昭和15年)9月11日、隣組強化法
  • 1941年(昭和16年)12月8日 - マレー作戦・真珠湾攻撃
  • 1942年(昭和17年)2月2日 - 大日本婦人会・発会式 国婦も愛婦も連婦も大日本婦人会に統合[16]
  • 1945年(昭和20年)6月13日、大日本婦人会・解散。国民は国民義勇戦闘隊に(6月23日、義勇兵役法発布)。

国防婦人会館

国婦発祥の地、大阪では、同会のための会館を自分たちの手で作ろうと決め、醵金を募り、1936年(昭和11年)に起工し、1937年(昭和12年)3月1日、国防婦人会館(正式名、大日本国防婦人会館関西本部会館)の落成式をとりおこなった[17]。

この建物は戦後、進駐軍に接収された後、返還され、財団法人大阪府婦人会館として運用され、1960年代に大阪府が借り上げて「大阪府婦人会館」とした(1982年に「大阪府立婦人会館」に改称)[18]。1994年(平成6年)4月1日に大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)[19]ができると、婦人のための会館としての役割を終えた。

評価

1934年の創立趣意書に「国難を打破し国防を安固にし以て皇国興隆の為一生を捧ぐるは日本婦人の使命」と述べ、総力戦体制を目指す軍部の意向に協力、パーマや晴れ着の禁止等の自ら生活スタイルの抑圧に奔り、後にはスローガンにとどまらず実力行使に及ぶ者もいたことから、一般に軍国主義的あるいはファシズム的女性運動と評されることが多い[6][20]。しかし、多くの世間一般の女性によって構成されたことから、一面的に言いきれない性格も持つ。他にも以下の通り。

無思想性

藤井忠俊は、国防婦人会について、右翼思想や国家主義、家族主義などの思想・主義に関心を持たない活動・行動、すなわちその無思想性を指摘し、その無思想性が時代に適応し、活動を拡大させた点を指摘した[21]。

白の軍団

軍では、総動員体制の中、「銃後」の女たちも思想戦、経済戦の戦士として重要だと認識していた。 加納実紀代は国婦を「白の軍団」と形容した[22]。

女性解放の側面

女性解放の視点で見ると、家にしばりつけられ、自由な外出もままならなかった一般女性を家庭から「解放」して家庭外での活動を可能にし、また女子労働者や遊郭の女たちもいったん割烹着と襷を身につければ「平等」にあつかわれたといえる。市川房枝や平塚らいてうは、手放しではないものの、ある種の女性解放をもたらしたとして国婦活動に一定の評価を与えている[22]。

関連人物

  • 安田せい - 国婦活動の発起人であり、大阪国防婦人会発足時の副会長。
  • 三谷英子 - 大阪国防婦人会発足時の会長。
  • 山中とみ - せいと共に大阪国防婦人会発足時の副会長だったが、早期に手を引いたため、 『大日本国防婦人会十年史』 にはその名が見られない。
  • 大森忠重 - 軍師役、せいらの助言者
  • 大江素天 - 大阪朝日新聞
  • 安田久吉 - せいの夫。妻の活動を積極的に応援し、知恵も手も貸した。
  • 石井嘉穂 - 陸軍軍人。国婦の整備発展に積極的に協力した[23]。「国防婦人会の父」とも言われた[24]。

関連文献

  • 大日本国防婦人会総本部/編 『大日本国防婦人会十年史』 1943
  • 日本図書センター 『愛国・国防婦人運動資料集』1996
  • 『市川房江自伝・戦前篇』
  • 『神戸国婦十年画史』
  • 石井嘉穂「国防婦人会発展秘話」
  • 大阪府立婦人会館編『大阪府立婦人会館30年のあゆみ』大阪府立婦人会館 1994年3月[25]

機関紙

  • 総本部『日本婦人』
  • 関西本部『婦人国防』
  • 関東本部『国防婦人』

その他

ドキュメンタリー

  • NHKスペシャル「銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々”〜」(2021年8月14日、NHK)[26]

噂話

  • 1937年8月23日、第二次上海事変で陸戦隊応援のために日本陸軍の増援部隊が派遣された時に、第3師団の先発梯団が呉淞桟橋に上陸しようとした所、国防婦人会のような恰好の女性らが多数いて、手に手に日の丸の小旗を持ち出迎えて来て、兵士らが安心して桟橋に降り立つと、女性らはあっという間に姿を消して、中国軍が激しい一斉射撃をしてきたという噂話がある[27]。国防婦人会自体は、この頃邦人のいる海外各地に多数の支部が既に出来ていたが、とくに会員が急速に増えたのは日中戦争以降で、テレビもない時代のことでもあり、国防婦人会の割烹着姿や見送り・出迎え等は直接経験したことのない人々、まして中国人が、この段階でどれほど知っていたかは疑わしい。戦史叢書では、8月23日は艦砲射撃で敵を叩いた上で、第三師団等の上陸援護隊が午前3時に呉淞桟橋付近に上陸し、河岸の敵を駆逐していったことになっている[28]。

参考文献

  • 千野陽一 『近代日本婦人教育史ー体制内婦人団体の形成過程を中心に』ドメス出版 1979年。doi:10.11501/12124197。
  • 藤井忠俊 『国防婦人会』 岩波書店1985年4月。doi:10.11501/12397534。
  • 粷谷美規子 『戦争を生きた女たち 証言・国防婦人会』(大阪府立婦人会館情報ボランティアグループの活動から) ミネルヴァ書房 1985年8月。doi:10.11501/12150215。
  • 創価学会婦人平和委員会編『かっぽう着の銃後ー平和への願いをこめて(17)国防婦人会(大阪)編』第三文明社 1987年12月。doi:10.11501/13295413。
  • 加納実紀代『女たちの銃後 増補新版』 インパクト出版会 1995年
  • 岡野 幸江、長谷川 啓、渡辺 澄子、 北田 幸恵 『女たちの戦争責任』東京堂出版 2004年9月

脚注

関連項目

外部リンク

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