三原紹心
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三原氏は筑後十五城の一角に数えられる筑後国の国人。大蔵氏族高橋氏の別流で高祖山城の原田氏と同族である。
筑後における大友氏直参家臣、通称「高一揆衆」「二四頭」の一人。豊饒鑑述[6]と共に筑後守護代官として、大友氏の軍事、行政を担当した有力被官で、所領の打渡しなど重要な職務に当たった[7][8]。天文年間のものと思われる大友義鑑の高良山宛の「高良山鏡山文書」によれば、三原和泉守が高良社造営奉行を申付けられたとある[9]。
天文19年(1550年)、二階崩れの変で大友義鑑死後、大友義鎮に義鑑の死を弔うため薙髮の願いを出し、義鎮から昌林の名をもらった。と同時に三原氏の家督を子・民部少輔宗琢に譲った[2]。
天正14年(1586年)、薩摩国の島津氏の北伐(豊薩合戦)では、主君高橋紹運や子・前清右衛門尉宗休と共に岩屋城へ籠城(岩屋城の戦い)し、戦死した[10]。