生年・没年とも記録が発見されていない。
1845年に息子岩之丞が生まれ、のちに旗本の永井尚志に養子に出している。
小十人頭であった1847年(弘化4年)、駿府町奉行を命じられた。
日光奉行の任期中の1856年(安政3年)、銃隊編成を計画し、佐野藩の松山大吾の塾に寄寓していた西村勝三に与力・同心の銃の訓練を依頼し、歩卒の二小隊を創設した。さらに野戦砲隊の創設を計画して大砲を購入した。このとき西村には日光滞在を断られている。
1853年(嘉永6年7月20日)から1857年(安政4年9月15日)まで日光奉行を務めた。