西村勝三
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来歴
父の西村芳郁(西村平右衛門)は下総国の佐倉藩士で、温故堂(成徳書院の前身)の頭取。佐野藩への附家老も務めた[1][注釈 1]。勝三は芳郁と楽子の三男として1837年1月に江戸丸の内の藩邸内で生まれると、幼い頃から佐野藩の藩校で松山大吾に西洋砲術を学んだ[2]。16歳の時に長崎海軍伝習所を志すが、落選し脱藩。
1865年(慶応元年)日本橋に鉄砲店を開き、伊勢屋勝三と名乗った。翌1866年には横浜太田町にも出店。当時、幕府の医師に佐倉藩出身の遠田昌庵(歩兵駐屯所世話方)、遠田澄庵(奥医師)の兄弟がいた[注釈 2]。
幕府が西洋式陸軍(伝習隊)を編成するにあたり、1867年にフランスからシャノワーヌ(後の仏国陸軍大臣)やブリュネなど15人のフランス軍顧問団が来日。この時、軍靴をフランスに注文したが、品物が幕府瓦解後の1869年(明治2年)に横浜に到着した為、これらはひとまず神奈川運上所に収蔵された。神奈川県判事(知事に相当)はこの軍靴の処置に窮し、御用商人の西村勝三に売却を依頼[4]。
1870年、勝三は軍靴製造の目的で製革・製靴事業を始める。
1868年(明治元年)に針数100本の手回し靴下編み機を輸入。これが日本の機械編みの最初である。勝三は1871年(明治4年)東京築地に工場を造り、輸入した数台の機械でメリヤス靴下製造業を始めた[5]。
1870年、日本初の製靴会社「伊勢勝造靴場」を設立。
1872年(明治5年)には築地に欧州のクラブを模範として日本初と云われるクラブ「ナショナルクラブ」を開設。同年、ドイツ人裁縫師のローマンを招聘して日本初の裁縫店を開業した[6]。1875年(明治8年)には耐火煉瓦製造業を始めている。1876年(明治9年)1月、推されて東京会議所副会頭に就任[7][注釈 3]。1884年(明治17年)7月、依田西村組を桜組に改称した[9][注釈 4]。
1900年(明治33年)1月、長年の功績が評価され緑綬褒章を受章[11]。1902年2月には正六位に叙せられる[11]。1900年7月、品川白煉瓦製造所を拡張し資本金8万円で品川白煉瓦合資会社を設立。1903年にこれを株式会社化した。1907年(明治40年)1月31日、盲腸炎がもとで逝去。享年72。勝三は医学研究のための資料にと自ら進んで死後の解剖を求め、盲腸は赤十字病院にて保存された[12]。墓所は品川の東海寺、大山墓地。
「予は失敗の歴史は有するも、いまだ成功の歴史を有せず」とは勝三本人の言葉。実際多くの失敗もしたが、製革及び製靴、ガラス、耐熱煉瓦、メリヤス、ガス等、日本の近代産業史上で特筆すべき先駆的役割を果たしている[13][14]。
家族
- 西村家
- 西村芳郁(西村平右衛門) - 下総国佐倉藩士(千葉県)。温故堂(成徳書院の前身)の頭取。
- 信子(前妻)- 旧姓小泉。1865年に勝三と結婚。子が出来なかったため、1869年に茂樹の四男・謙吉を養嗣子とした。早世。
- 楽子(後妻)
- 現子(後妻)- 旧姓谷口。勝三との間に六男五女を産んだ。
- 良(長女)
- 森川昭太 - 良の夫。
- ナカ(孫)- 良の長女。
- 淑(孫)- 良の二女。
- 石丸一 - 淑の夫。徳島県小松島市出身の画家。漢方医の子として生まれ、京都帝国大学医科大学卒業後大阪で開業の傍ら信濃橋洋画研究所で絵を学び、朝日賞受賞。九室会に参加した。1936年ベルリンオリンピック出品、二科展会員などで知られる[16]。
- 徳(とく、二女)
- 八十島親徳 - 徳の夫。渋沢栄一秘書[17]。
- 義(よし、三女)
- 佐藤敏夫 - 義の夫(1876-1934)。東京慈恵会医科大学耳鼻咽喉科教授[18]。
- 谷口辞三郎(長男)- 早稲田大学を卒業し母の生家である谷口家を継いだ[19]。
- 河野譲(二男)- 馬越恭平の兄・河野呈輔の養嗣子となる[20]。
- 渡辺茂(四男)- 渡辺豊次郎の養嗣子となる。
- 西村直(五男、1888-1934)- 兄三人が他家の養子となり、直が家督を継ぐ[20]。慶應義塾普通部、東京高等工業学校を経て入隊。1913年ドイツで応用化学を学び、帰国後家業を継ぐ[20][21]。日本化学陶業を創業。岳父に西園寺亀次郎(西園寺公成二男)がいる[20]。
- 松田元(六男)- 松田惣平の養嗣子となる。
