三宅観瀾
1674-1718, 江戸時代中期の儒学者。名は緝明、字は用晦、通称は九十郎、号は観瀾。『文房四賢伝』など
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
延宝2年(1674年)、京都の町人儒者である三宅道悦の次男として生まれる。
はじめは浅見絅斎を師とし、後に木下順庵の門下となり朱子学を学ぶ。元禄11年(1698年)に江戸に下り、翌元禄12年(1699年)に栗山潜鋒の推薦で水戸藩に仕えた。彰考館総裁の鵜飼錬斎が、観瀾がかつて書いた楠木正成についての文章を徳川光圀に見せたことがきっかけで彰考館編修となり『大日本史』編纂に従事。新田義貞・楠木正成や名和長年の伝を書く。元禄13年(1700年)には200石を給され、宝永5年(1708年)に編修と兼務で進物番に昇進。宝永7年(1710年)に彰考館総裁となる。正徳元年(1711年)、新井白石の推薦により江戸幕府に登用されるが、徳川吉宗が将軍職を継いだ際に失脚した白石に連座することを恐れて『懐書』という弁明を書き、この中で自らが順庵門下であることを否定している。