三方領地替え (1817年)

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唐津藩からの転封を望んだ水野忠邦

三方領地替え(さんぽうりょうちがえ)とは、江戸時代文化14年(1817年)に、遠江国浜松藩陸奥国棚倉藩肥前国唐津藩の3藩の大名が同時に転封をうけた出来事である。浜松藩主井上正甫は棚倉藩へ、棚倉藩主小笠原長昌は唐津藩へ、唐津藩主水野忠邦は浜松藩へ転封した。表向きは、不祥事を起こした井上正甫への処罰的な意味あいの転封であったが、その背後には積極的に幕政へ関与することができない唐津藩主の立場を嫌った水野忠邦が首謀したともされている。この三方領地替えにより「出世城」とも呼ばれる浜松藩主へと栄転した忠邦は、以降出世街道を歩み、大御所徳川家斉の死後は天保の改革を主導することとなった。一方で転封による負担は、3藩ともに財政に大きな影響を及ぼした。

唐津藩水野家と水野忠邦

唐津藩の藩庁が置かれた唐津城

宝暦12年9月(1762年)、三方領地替えにより水野忠任三河国岡崎藩から肥前国唐津藩へ転封した[1]。唐津藩主は、長崎奉行を補佐しながら異国船の警固を担当する長崎見廻役につくために、幕府の重役にはつくことができない立場であった[1]

岡崎藩時代より財政が逼迫していた水野家であったが、唐津転封などによるさらなる負担を強いられることとなった[2]。忠任以降の藩主は家臣への減給・娯楽の禁止などにより対応するも、自然災害の相次ぐ発生もあって、領内で虹の松原一揆などが起こったように民衆の不満がたまっていた[3]。養子の水野忠鼎の時代には、二本松義廉に全権を委ね藩政改革を実行させたが、万全の成果をあげることはできなかった[4][5]。その子水野忠光は義廉を藩政から遠ざけ自らが改革にあたるも、わずか10年で隠居し、その子の水野忠邦が唐津藩主を継承した[6][7]。就任当初は、積極的に藩政改革を主導し、義廉を復帰させている[8][9]

文化13年(1816年)11月、忠邦は幕府要職への足掛かりである奏者番に任命された[10]。さらなる昇進を目指す忠邦であったが、長崎見廻役という重責を担う唐津藩主という立場は不都合であった[11]

この当時は老中首座松平信明牧野忠精など、松平定信の流れをくむ幕臣が重役についていた[11]。しかし、文化14年(1817年)8月に、沼津藩水野忠成(忠邦と同族)が老中格につき、信明が死去したことで、忠成の発言力が上がった[11]

井上正甫の不祥事

当時浜松藩主であった井上正甫は、高遠藩内藤頼以の別荘に招かれた[12]。酒に酔った正甫は、農家に押し入ってその妻を犯し、それを見つけた夫と正甫でもみ合いになった[12]。金銭を渡し口封じをしたものの、うわさが知れ渡り、松平信明より逼塞を命じられていた[12]

領地替え

水野忠成

忠成の工作もあり、9月10日に忠邦は寺社奉行に任命、14日に三方領地替えが発令された[11][13]。浜松藩主の井上正甫は棚倉藩へ、棚倉藩主の小笠原長昌は唐津藩へ、唐津藩主の水野忠邦は浜松藩への転封であった[11]

井上正甫にとっては上述の不祥事を蒸し返される形での、棚倉藩への左遷であった[12]。世間では、「色でしくじりゃ井上様よ やるぞ奥州の棚倉へ」とうたわれたと云われている[12]

領地替えへの反発

三方領地替えに対して、唐津藩内では大きな反発を生んだ[14]。三方領地替えの知らせが唐津藩領内に伝わった9月29日、当時唐津神祭の途中であった民衆たちは、「熱湯に水を入れたかのように」引き払ってしまったという[9]

浜松藩と唐津藩は表高こそ等しく6万石であったが、実高は20万石を超えるともいわれていた唐津藩から、浜松藩への転封は水野家にとって減収を招くことが明らかであった[14]。さらに、転封に要する費用負担がさらなる財政悪化を招くことが危惧されたためでもあった[14]。財政改革を主導していた二本松義廉は、忠邦に再考を促すも、「一度は老中となり、天下の政治を料理したいのが畢生の念願である。そのために願った国替えであるのに反対するのは忠邦に不忠をすすめる所存か」として聞き入れなかった[15]。義廉はこののち、自害したという[15]

影響

脚注

参考文献

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