三日平氏の乱 (鎌倉時代)
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経過
平家残党は20年の雌伏を経て、将軍後継問題で揺れる幕府の動揺に乗じて建仁3年(1203年)12月、若菜五郎盛高(元暦元年(1184年)の三日平氏の乱を起こした藤原忠清の次男・平忠光の子)が軍勢を率いて伊勢国の守護である山内首藤経俊の舘を襲撃し、再び反乱の兵を挙げた。
山内首藤経俊はこの襲撃事件を平氏反乱の兆しとは気づかず、12月25日に侍所別当和田義盛が幕府に事件の張本を伊勢国員弁郡の郡司進士行綱と報告し、翌元久元年(1204年)2月、行綱は召し捕られ囚人とされた。しかし同2月、伊賀で平維基(維盛の子とされる)の子孫らが、伊勢で平度光(忠光の子、盛高と兄弟か)の子息らが蜂起し、両国の守護の経俊が赴いたが問答無用で襲撃され、無勢の経俊は逃亡した。伊勢・伊賀は制圧され、反乱軍は鈴鹿関や八峰山(現在の八風峠)等を通る道路を固めた。
この報告を受けた幕府は元久元年(1204年)3月10日、ついで3月29日に京都守護の平賀朝雅に京畿の御家人達を率いて伊勢・伊賀両国へ出陣することを命じた。
京都では反乱軍の勢力は千余人に及ぶとの風聞があり、3月21日、後鳥羽院の御所で議定があり、伊賀国を朝雅の知行国と定め、追討の便宜を図った。翌22日、朝雅は軍勢は200騎を率いて出陣した。反旗は伊賀国に翻ったものの、反乱の中心地は伊勢北部の朝明郡、三重郡、鈴鹿郡、安濃郡、河曲郡の諸国および中心の多気郡であった。追討軍は3月23日、都を出て征途に上った。反乱軍が鈴鹿関を塞いでいるため、近江国からは入れないので美濃国を経由し、27日に伊勢国に入った。作戦を練った上で4月10日から合戦に及び、まず富田基度(曾孫に平親真)が拠る朝明郡の富田舘(四日市市東富田町)を襲い、数時間合戦を続け、富田基度・松本盛光兄弟、安濃郡の岡八郎貞重とその子息・親族等を撃破した。さらに多気郡に進んで庄田三郎佐房とその子師房と戦い、六箇山の三浦盛時、そして関の小野(亀山市)に拠る張本の若菜五郎を破った。同12日、反乱はほぼ3日間で鎮圧され、その後伊賀国の残党も追討された。
幕府では5月10日に論功行賞が行われ、山内首藤経俊は伊賀・伊勢の守護を剥奪され、朝雅が兼務することとなり、謀反人の所領は朝雅に与えられた。加藤光員も恩賞を受けた。