加藤光員
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- 治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵に父や弟と共に参じ、石橋山の戦いで敗走して箱根山中へ逃げ込み、弟・景廉と共に甲斐国へ逃れる。10月、鉢田の戦いで武田氏と共に駿河国目代・橘遠茂を攻め、光員が遠茂を討ち取る武功をあげた。
- 文治元年(1185年)、平家の有力家人であった藤原忠清を光員の郎従が捕らえている。
- 文治3年(1187年)、所領の多くがある伊勢国で公卿勅使伊勢駅雑事対捍の件で訴えられている。
- 文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍。
- 建久4年5月28日(1193年)6月28日、曾我兄弟の仇討ちの際には、曾我兄弟に斬られて負傷した。
- 元久元年(1204年)、三日平氏の乱で平家残党を追討した賞を受け、西面武士として検非違使に任ぜられ、大夫判官と称した。その後、伊勢守となる。
- 承久3年(1221年)の承久の乱では、加藤家存続のために、弟の景廉は幕府方に属し、光員は後鳥羽上皇が率いる朝廷方に属して戦った。結果として幕府方が勝利したため光員所領の伊豆国狩野荘牧之郷は没収され、弟の景廉に与えられた。没年は不明だが、乱後間もなく死去したものと見られる。
弟の景廉の長男で甥にあたる遠山景朝の領地であった美濃国恵那郡遠山荘明知[1]の、明知城址の北麓にかつて存在した長楽寺址の墓地に、光員一族の墓と伝わる宝篋印塔と五輪塔が残っている。
関ヶ原の戦いに際して徳川家康が率いる東軍に参加し、東濃の戦いで戦功を挙げて江戸幕府の旗本となった明知遠山氏の重臣で江戸屋敷の御用人であった加藤氏があり、光員の子孫と伝わっている。
旗本明知遠山氏5代の遠山伊清、6代の遠山景昵に仕えた重臣の加藤輿兵衛(忠右衛門)の娘[2]は、伊清の側室となり嫡男の白丸[3]を生んだが夭折して家督を相続することはできなかった。
文化元年(1804年)に明知村の役人が旗本へ出した加藤家の由緒「御知行所由緒有百姓御改」には以下の内容が記されている。
明知村 百姓 輿吉 寛永年中 御代官 相勤ㇽ 加藤輿兵衛より 五代孫 私曰 此 加藤輿兵衛事 後 忠右衛門と改名して 江戸御用人 相勤ㇽ 忠右衛門娘 伊清公へ被 召出 白丸君を儲給ふ 病死して 恵光院と唱へ 南泉寺へ葬 是也