三昧塚古墳 (行方市)
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| 三昧塚古墳 | |
|---|---|
|
墳丘(右に後円部、左奥に前方部) | |
| 所属 | 沖洲古墳群 |
| 所在地 |
茨城県行方市沖洲 (三昧塚古墳農村公園内) |
| 位置 | 北緯36度09分17.30秒 東経140度21分57.25秒 / 北緯36.1548056度 東経140.3659028度座標: 北緯36度09分17.30秒 東経140度21分57.25秒 / 北緯36.1548056度 東経140.3659028度 |
| 形状 | 前方後円墳 |
| 規模 |
墳丘長82.1m 高さ8m(後円部) |
| 埋葬施設 | 組合式箱式石棺 |
| 出土品 | 副葬品多数・埴輪 |
| 築造時期 | 5世紀中葉-後半 |
| 史跡 | 行方市指定史跡「三昧塚古墳」 |
| 有形文化財 | 出土品(国の重要文化財) |
| 地図 | |
三昧塚古墳(さんまいづかこふん)は、茨城県行方市沖洲にある古墳。形状は前方後円墳。沖洲古墳群を構成する古墳の1つ。行方市指定史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
茨城県中部、霞ヶ浦北部の鎌田川流域の沖積低地上に築造された古墳である[1]。一帯では勅使塚古墳・権現山古墳・大日塚古墳などとともに沖洲古墳群を形成する(他の古墳はいずれも洪積台地(行方台地)上に所在[2])[1]。1955年(昭和30年)の土取り工事で大きく削平を受け、その時の緊急発掘調査で主体部・副葬品が明らかとされたほか、1994・1999年度(平成6・11年度)に墳丘調査が実施されている[3]。
墳形は前方後円形で、前方部を北西方向に向ける。墳丘は基壇の上に構築され、後円部は2段築成であるが、前方部は段築不明[4]。墳丘外表では円筒埴輪列のほか形象埴輪(人物埴輪・鹿形・牛形・犬形埴輪[5])が認められる[2]。また墳丘周囲には周堀(形態不明[6])が巡らされる[2]。埋葬施設は組合式箱式石棺で、後円部墳頂下に構築される[2]。石棺内からは、人骨のほか金銅製冠をはじめとする多数の副葬品が出土している[2]。また石棺付近には木製の収納施設があり、こちらからも武具・馬具類が出土している[2]。
築造時期は、古墳時代中期の5世紀中葉-後半頃と推定される[6]。被葬者は明らかでないが、霞ヶ浦を地理的環境を利用して治めた有力首長と想定される[2]。
古墳域は1990年(平成2年)に旧玉造町指定史跡(現在は行方市指定史跡)に指定され、出土品は2018年(平成30年)に国の重要文化財に指定された。現在は墳丘復元を伴う史跡整備のうえで三昧塚古墳農村公園として公開されている。
遺跡歴
- 中世期、墓地化[7]。
- 1955年(昭和30年)、築堤工事に伴う土取り、緊急発掘調査。副葬品多数の出土(第1次調査、後藤守一・斎藤忠・大塚初重ら、1960年に報告)[2][3]。
- 1990年(平成2年)8月23日、旧玉造町指定史跡に指定(現在は行方市指定史跡)[3][8]。
- 1994年度(平成6年度)、第2次調査(旧玉造町教育委員会・明治大学、1995年に報告)[3]。
- 1999年度(平成11年度)、第3次調査(旧玉造町遺跡調査会・明治大学、2001年に報告)[3]。
- 2004年(平成16年)1月8日、出土遺物が茨城県指定有形文化財に指定[9][10]。
- 2018年(平成30年)10月31日、出土品が国の重要文化財に指定[11]。
- 2024年(令和6年)8月27日、国の重要文化財の員数訂正および追加指定。
墳丘
埋葬施設

埋葬施設としては組合式箱式石棺が構築されており、後円部中央の墳頂下2.7メートル(築造当初は墳頂下約3メートル)において、東西方向(頭位は東)に据える[10]。石棺は棺蓋1枚・左右側壁各2枚・前後両小口板各1枚・底石2枚の変質粘板岩計9枚を組み合わせたもので、長持形石棺の流れをくむものとされる[10]。棺蓋は長さ2.3メートル・幅0.80メートル・厚さ0.10メートルを測り、各長辺には縄掛突起を有する[10]。石棺の蓋石には鉄製戟が置かれ、石棺内からは伸展葬の人骨とともに多数の副葬品が出土している(後述)[2]。
また石棺の北方約50センチメートルには、副葬品埋納用の別の木製施設(木箱または木板状施設)が認められ、この施設からも多数の副葬品が出土している[2]。
出土品
中世の墓地化
1955年の発掘時の調査において、後円部中央の墳頂下1.5メートル付近から五輪塔と中に納められた火葬骨が散乱した状態で発見され、またこの付近に後世の土の混ぜ返しの痕跡があったことが判明し、古墳の名称からも室町時代(恐らくは14世紀頃)に墳丘を掘って中世の墓地が築かれていたと推測される[7]。その後の研究で龍ケ崎市の桜山古墳やかすみがうら市の颯壁古墳などからも同様の遺構がみられ[12]、この地方において真言律宗や臨済宗の僧侶が布教活動の一環として地域に根付いた古墳にまつわる伝承を活用して一種の聖地化を行い、その上層部や周辺部に埋葬施設を造営したのではないかという中世史側からの提言が出されている[13]。ただし、発掘当時には中世仏教遺跡に対する認識が確立されておらず、当古墳における中世の遺物に関しては行方不明となってしまっている[7]。

