三木宗策

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   三木宗策 アトリエにて

三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月22日 - 1945年〈昭和20年〉11月28日)は、日本の彫刻家[1]高村光雲の高弟である山本瑞雲[2]内弟子となる[3]。第十回文展入選以来十二回まで続けて入選、第六回帝展で「不動」[4][5]が特選となり以後無鑑査を経て1932年〈昭和7年〉帝展審査員となる。新しい造形精神に立脚した伝統木彫の確立に努めた[6]

生い立ちと山本瑞雲入門

三木宗策は福島県郡山市で、表装を生業とする三木宗次郎、ハルの二男として生まれた。明治29年(1896年)金透尋常小学校に入学、成績優秀で毎年のように級長を務め中学校進学を希望したが、父の同意が得られなかった[3]。三木家の菩提寺である善導寺には阿弥陀如来像が座しており、幕末の戊辰戦争と明治期の火災で本堂が焼けた際に、本尊も損傷を受けておりその修復のために、山本瑞雲[7]がおとずれていた[8]。この縁から、東京の木彫家山本瑞雲に弟子入りすることになり、満15歳を前にした1906年(明治39年)11月末に上京して山本門に入門した[9]。東京での師匠宅での初めての夜、たまたま師の山本瑞雲の師匠である高村光雲が山本宅を訪ねてきたことで、三木は入門初日に日本を代表する彫刻家に会う幸運に恵まれた[9]。 当時の年季奉公と弟子入りの常識としては12歳前後が通例であったものが、三木の場合は年齢的にかなり遅い奉公であった[10]。また、弟子は食事や住まいは師匠の家で世話になることが出来たが、一方で当然のことながら子守や炊事等の師匠家の家事雑事を担いながらの修行が始まった[8]。木彫修行の手始めは道具の使い方の練習から始まって「のみ」の研ぎ方を含めて次第に習熟し、師匠の仕事ぶりを見て覚えていく。師の山本瑞雲とその師高村光雲は木彫の名手で手本に事欠かなかった。光雲や瑞雲といった名手が身近にいたことは幸運であった[11]

初めての関西旅行と「文展」初入選

1914年(大正3年)入門以来7年の年季が明け、山本門を出た三木は実兄で画家を目指す宗太郎とともに伯父菅原平太郎宅に寄宿した[12]。2年後の1916年(大正5年)、初めて関西旅行に出た。三木は修業時代に仏教美術に接する機会は少なくなかったが、新薬師寺の本尊薬師如来像東大寺 南大門の仁王像など多くの優れた仏教美術を間近に見て[13][14]、それまでの小品の習作とは全く異なった日本の伝統彫刻の魅力に初めて接し感動を新たにした[15]

一方で、単に仏教美術を墨守するものではなく、絶えず新しい領域に挑戦し日本ないし東洋的なモチーフによる造形を積極的に志向していくことが三木の特色ともなった。関西旅行はそれまでの想像を超えたほど圧倒的に大きな刺激を与え、それが木彫家としての三木の意欲を高めるものとなった[16]

この年の官設公募美術展、第10回「文部省美術展覧会(文展)」において、作品「ながれ」[17]を出品し彫刻界へのデビューを果たした。さらに、大正6年「第11回文展」「美しき星の一つに」[17]大正7年第12回文展「若き日のなやみ」[17]で続けて入選し、彫刻家としての確かな道のりを歩み始めた。

「日本彫刻会」と新伝統主義

三木が生まれた明治24年(1891年)は、明治維新の激動で急激な西洋美術の受け入れと廃仏棄釈の嵐が全国に吹き荒れ、日本の伝統的な美術・工芸は一気に軽視され、衰退の一途を辿っていた時代であった[18]仏師と呼ばれた仏像彫刻師の多くは生計の基盤を失い弟子をとるにも事欠いて、転業を余儀なくされるものが続出した[19]

明治17年(1884年)、岡倉天心とともに法隆寺を訪問したフェノロサが、秘仏「救世観音菩薩立像[20]を観て「古代ギリシャ彫刻に迫る」と絶賛したことに象徴される[21]、日本の伝統美術の卓越性の再評価とその振興策に二人は取り組みつつあった。この流れの中で、明治22年東京美術学校が開校し、岡倉天心校長の下で初代彫刻科教授に高村光雲が就任し、三木の師山本瑞雲はその助手として仕えた[22]。生活上の憂いから解放されて苦境を脱した高村光雲は、活躍の場を得て日本木彫の復興と多くの後進の育成に邁進していった[23]。三木が上京した翌年の1907年(明治40年)、岡倉天心を会頭とする「日本彫刻会」が結成され[24]、西洋近代彫刻の特質である写実主義の影響を受け入れつつも、本物そっくりの精神的内容の不足を感じるものとは異なり、飛鳥時代以来の古代からの伝統彫刻を重視し日本の風土感覚にによる木彫を志向する新伝統主義ともいうべき方向が目指されていった[25]

三木の師匠である山本瑞雲以下高村光雲門下の中堅彫刻家たちが参加していた縁で、独立二年目の1915年(大正4年)、三木は「日本彫刻会」に「姫百合」「合せ鏡」「蓮華」を出品した[12]。2年後の1917年(大正6年)、三木はこの会の解散と共に、師匠の山本瑞雲らとともに新たに「栴檀社」を設立するが[26]、「日本彫刻会」が目指す流れは明治から大正にかけての三木彫刻の主体的活動の基本的方向性となった[27]

独自の表現と新しい仕事場

三木独自の表現は1920年(大正9年)開催の第二回帝展の「愛染」[17]あたりからはっきり出てきた。「愛染」では、幼児をひざの上にかかげた単調な姿態の中に、良く慈母の愛と貴婦人の気高さを表現し得た。正面性を重視し、やや左右対称の構図は関西旅行で体験した仏像彫刻からヒントを得たものであった[28]

関西旅行においては、スケールをもつ造形的な存在感とその圧倒的な魅力を身をもって感じた。以前から大きい作品を制作することを可能にする自己の制作のための仕事場をもつ希望が強まっていた。独立以来5年を経た1919年(大正8年)頃、これまでの伯父宅での寄宿から自らの新しい仕事場を計画し、東京市北豊島郡滝野川に借地して自宅と仕事場の新築に取り掛かった[29]。これが後年の「威容抱慈」[30]や「不動」[31]などの大作の制作へと連なっていった。

「威容抱慈」

1924年(大正13年)、第5回帝展で「威容抱慈」[30]が入選した。古代の武人が鎧兜に身を固め、左に剣をつき右手に幼児を抱えた姿は、豪放な中にも和やかな雰囲気を持っており、その豪放性のゆえに、世上「坂上田村麻呂」像とも言われている[32]。この武人の力強い表現は、堂々とした確固たる存在感と大きさを持っているが、同時に幼児を抱きかかえる優しさを含んで、調和のとれた作品となっている[33]。さらに、長谷川栄作によれば、「三木は東洋的な伝統を生かすことに根強い執着を持っている人のようであり、この作品からは恰も太古の埴輪にある純真な表現形式によって、作者自身の心境を表した様であるがその狙いは的中して、見るものをして一種の威厳を感じさせらずにはいられない」[33]と高く評価している。力強さとやさしさを併せ持つことが、三木の主要な目標になっていった[33]

「不動」帝展特選と平井聖天燈明寺

1925年(大正14年)第6回帝展において「不動」[31]が特選に選ばれたことは、35歳の三木にとってエポックメーキングな出来事であり、かねて志向してきた仏教彫刻についての図像的な探求の一つの到達点であり、大作を目指してきたことの成果でもあった。その成果が官展の場で評価を得たことは大きな喜びであり、これまでの三木の木彫への取り組みについて大きな自信を得ることが出来た[34]。この作品は大正12年9月1日の関東大震災により全壊した江戸川区平井燈明寺に本尊として納めるものであった。

燈明寺は福島県郡山市如寳寺から移っていた関澄道貫主の発願で、本堂、本尊ともに関東大震災からの再建途上にあった[35]。「不動」を中心として、1930年(昭和5年)第11回帝展「矜羯羅童子」[36]、1932年(昭和7年)第13回帝展「制多伽童子」[37]を加えた不動三尊を囲んで[4]、周囲に「聖徳太子」像[38]、1939年(昭和14年)第3会文展「空海」[39]などを配して、背後に1941年(昭和16年)「大日如来」[40]が安置され、三木の彫刻作品で全体として諸像が曼荼羅を構成するという関澄道貫主の壮大な構想のもとに計画され、完成までに十数年を要した大作であった[41]

三木の代表作ともいえる「不動明王」を始め諸仏を祀る平井聖天燈明寺は、人々が救いを希求する人間社会の底にある希望の感覚を表現しようとする寺であった。三木が目指したものは、仏教思想を造形化しようとした日本彫刻会系の彫刻家たちが取り組んできたことと底流において共通するものであった[42]。「不動」が特選を受賞したことにより、次回からは帝展において無鑑査出品の栄誉が与えられた。

郡山市如寳寺・欄間「弘法大師一代記」

郡山市の真言宗「如寳寺」[43]欄間に見る者をして荘厳な気持ちを抱かせる、真言宗開祖の空海の誕生から入定までを描いた「弘法大師一代記」(12枚)が飾られている[32]。制作依頼は大正年間に当時の関澄道住職によってなされ[41]、財政的な理由と如寳寺が10数年前から準備した欅の用材が乾燥して硬化したため狂いが生じたことから、制作開始は遅れたが[44]、関住職がその後に東京平井燈明寺に移った後の昭和に入ってから制作が開始され[45]、1939年(昭和14年)まで13年間続いている。制作に当たっては、三木一門の橋本高昇、本田晶彦なども参加している[44]

構図は三木の実兄である三木宗太郎の下絵に基づいていた[41]。それぞれの場面が裏側からも鑑賞できるように巧妙に彫り抜かれ表情豊かな波や雲の表現などに高い技量が伺われる[41]。三木の多忙もあって生前には10枚まで完成し、残り2枚は戦後の昭和35年に三木にとっては師の山本瑞雲の兄弟弟子にあたる後輩の佐藤匡義が補作し完成した[46]

大圓寺・旧蔵 「千手観音菩薩像」と門下生たち

曹洞宗大圓寺(東京都文京区)本堂は高村光雲作の釈迦如来像を本尊として、一門の彫刻家による多くの仏像が安置されていた。そのうち七観音は、光雲指揮のもとに山本瑞雲と三木宗策によって制作されたものであったが、いずれも戦災で本堂とともに焼失し戦後高村光雲一門によって改めて制作された[47]

戦前に制作された七観音は、「聖観音」が1930年(昭和5年)に始まり1934年(昭和9年)「準提観音」まで順次開眼された。このうち「十一面観世音菩薩像」1932年(昭和7年)4月10日開眼[48]と「千手観世音菩薩像」1933年(昭和8年)5月14日開眼[48]の二像は、高村光雲と三木宗策の共作とされたもの。しかし当時すでに80歳を迎え高齢だった光雲は監修として指揮をとり、実際の制作作業は三木一門があたった[47]。2観音像は三木の本格的仏像としての最初の作品であり、弟子たちも力をつけてきた時期に当たるが、東京大空襲により焼失した[33]

三木は生涯に亘って多くの門下生を育てたが、中でも一門として大きな仕事であった向丘・大圓寺の千手観音開眼の折の記念写真には[49][50]、三木の前に左から本田晶彦、宗像庄一郎、観音像右手に田口儀三郎、佐藤静司、その後ろに太田良平が並んでいる。この頃はすでに橋本高昇[51][52]、柳沼曹雲は独立していた[53]。弟子の多くは福島県出身者で、太田良平[51][54]は戦後の福島県彫刻界の重鎮として知られる。本田晶彦[55][56]は郡山市内清水台生まれ。戦後に日展への出品のあと、日展無鑑査委嘱、仏師として活躍。住まいのあった千葉県松戸市では文化財審議会委員などを歴任した。宗像庄一郎は[57]1932年(昭和7年)第13回帝展に「幽庭浄韻」[58]を出品した。佐藤静司[59][60]は郡山市内駅前生まれ、1931年(昭和6年)入門。戦後は澤田政廣に師事し、日展では昭和25年に特選を経て審査員などを歴任して活躍した。 1997年(平成9年)勲四等瑞宝章を受章、郡山市フロンティア大使としても貢献が大きい、100歳を越えても日展に出品して106歳の長寿を全うした。田口儀三郎は若くして戦死したことから、作品が残らなかった。三木の師匠であった山本瑞雲の弟子にも福島県出身者が多くいて、三木と兄弟弟子として近しかった。そのうち佐藤匡義[58][61]は郡山市出身でもともとは三木に弟子入りを希望していた。 

「羅馬少年使節」

1934年(昭和9年)第15回帝展「羅馬少年使節[62]出品。仙台伊達正宗は、1585年大友有馬大村の三国主の使者として、伊東マンショ義賢ら3名を、宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ師に随行させイタリアに派遣した。当時としては壮大なロマンティックな出来事であった。少年ローマ使節の豪華な騎馬像である。この年の政府買上に選ばれたが、予算の都合上、東京美術学校の参考品として扱われた[63]。この作品はローマ法王に謁見する伊東マンショの晴れ姿を表したものであり、その顔立ちにはまだ少年のあどけなさを残すが、きりっとした面差しが清々しい印象を与えている[64]。3年前の1931年(昭和6年)に、三木は帝展審査をリードする山崎朝雲らに対抗するため[63]内藤伸佐々木大樹澤田晴廣らと日本木彫会を結成[65]、帝展での地位を確固たるものにしつつあった[66]。少年の颯爽とした姿にこの当時の三木自身の姿が重ねられている[64]

尾道市耕三寺 「七観音像」

「銀河惜別」 耕三寺博物館:所蔵・撮影 ライセンス:CC BY-SA 4.0

耕三寺は大阪の実業家耕三寺耕三金本福松)が母の菩提を弔うために自ら僧籍に入り、広島県尾道市生口島に菩提寺として1935年(昭和10年)から生涯を掛けて建立した寺である。耕三は戦前に、東京都文京区「大圓寺」の高村光雲と三木宗策の制作による戦災で焼失以前の七観音を見て感動したことから、三木の力量を認め[67]、新たに耕三寺に七観音[68]を制作するように依頼した。制作は1938年(昭和13年)に「馬頭観音」「聖観音」、1941年(昭和16年)に「准胝観音」と続き、全七観音の完成までに4年の年月を要した。七観音は境内三か所、中門・「馬頭観音立像」「不空羂索観音立像」、礼拝堂・「千手観音立像」、孝養門・「如意輪観音坐像」「准胝観音坐像」「十一面観音立像」「聖観音立像」に安置されている。七観音以外にも、「降誕(摩耶夫人)」「銀河惜別」などの作品とともに一門の、橋本高昇、太田良平、宗像庄一郎などの作品が収められており、耕三寺は東京の平井燈明寺とともに三木一門の作品の一大殿堂となっている[69]

三木多聞は父の作品「銀河惜別」について、 「天の川の両岸にある牽牛星と織姫星が年一度七月七日夜に相会する中国伝来の風習に基づく星を祭る年中行事によるテーマである。牛に乗った牽牛と立ち姿の織姫を古い杉材を使った群像である。東洋的なロマンティシズムをたたえた作品である」と評している[63][70]

仏師と彫刻家

日本の彫刻は、明治維新の西洋からの写実的な近代彫刻の影響を受容しつつも、一方では推古朝以来の古典的な仏像彫刻が仏師と呼ばれる仏像彫刻家によって伝統が引き継がれてきた[71]。二つの流れの中で、三木の作品の多くは基本的に仏教の儀軌経典に従いながらも、必ずしも類型的な仏像の姿になっておらず、自己の自由なイメージが加えられている[72]。他方で仏像制作を数多く行うにしたがい、三木は晩年には仏教に対する信仰が深まり、菩提樹の実をつなげた数珠を肌身離さず身につけていた[72]。三木の日常生活においてのこのような敬虔な態度は、平櫛田中の次の言葉から大きな示唆を得ることが出来る、「製作者がその製作の当処においては仏であり、仏の境地に入っているのでなければ、つまり仏になりきらなければ、後世に残る立派な名作なぞ出来るはずがない。」[73]

疎開と病

1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では滝野川の自宅は戦災を免れたが、三木は一家を挙げて郷里の福島県郡山市の郊外に疎開した[74]。東京の自宅は幸いにも戦災を免れたが、本郷の大圓寺が空襲に会い、最初の仏像大作十一面観音像が保存庫とともに焼失したことが疎開を決心させた。疎開した家屋は老朽化していたため、その補修工事中に不慮の事故にあい、肝臓障害を起こして黄疸となり入退院を繰り返すこととなった[75]。8月15日、第二次世界大戦の終結が伝えられたが、病状は進行して肝臓は悪化し、54歳の若さで11月28日永眠した[76]。三木宗策が天寿尽きず戦後も活躍できたならば、彼自身の仕事を大きく完成したのみならず、佐藤玄々とは別の形で、日本彫塑界に大きな金字塔を打ち立てたであろう[77]

文展・帝展と作品

  • 1916年(大正5年) 第10回文展に「ながれ」初入選[17]
  • 1917年(大正6年) 第11回文展に「美しき星の一つに」出品[17]
  • 1918年(大正7年) 第12回文展に「若き日のなやみ」出品[17]
  • 1920年(大正9年) 第2回帝展に「愛染」出品[17]
  • 1921年(大正10年) 第3回帝展に「大風歌」出品[17]
  • 1922年(大正11年) 第4回帝展に「日本武尊」出品[78]
  • 1924年(大正13年) 第5回帝展に 「威容抱慈」[30]出品[79]
  • 1925年(大正14年) 第6回帝展に「不動」出品、特選受賞[5]
  • 1926年(大正15年) 第7回帝展に「降誕」無鑑査出品[80]
  • 1927年(昭和2年) 帝展委員となる。第8回帝展に「かやのひめの神」無鑑査出品[81]
  • 1928年(昭和3年) 第9回帝展に「圓」無鑑査出品[80]
  • 1929年(昭和4年) 第10回帝展に「西王母」無鑑査出品[82]
  • 1930年(昭和5年) 第11回帝展に「矜羯羅童子」無鑑査出品[36]
  • 1931年(昭和6年) 第12回帝展に「万象授生」無鑑査出品。
  • 1932年(昭和7年) 第13回帝展に審査員となり「制多伽童子」を出品[37]
  • 1933年(昭和8年) 第14回帝展に「銀河惜別」無鑑査出品[83]
  • 1934年(昭和9年) 第15回帝展に「羅馬少年使節」無鑑査出品[62]
  • 1936年(昭和11年) 文展に「丹花綻ぶ」を招待出品[84]
  • 1937年(昭和12年) 第1回文展に「国威発揚」を招待出品[85]
  • 1938年(昭和13年) 第2回文展に審査員となり「粧」を出品[86]
  • 1939年(昭和14年) 第3回文展に「空海」を招待出品[39]。福島県郡山市如法寺欄間十二枚中十枚完成[87]
  • 1940年(昭和15年) 日本木彫会から分離し沢田晴広らと正統木彫家協会を設立し、毎年展覧会を開く。
  • 1941年(昭和16年) 広島県瀬戸多島耕三寺に七観音を制作完成[68]
  • 1944年(昭和19年) 戦時特別展に「北条時宗像」を出品[88]

諸会派と主な作品

  • 1915年(大正4年) 日本彫刻会第7回展覧会に「姫百合」「合せ鏡」「蓮華」を出品[12]
  • 1917年(大正6年) 日本彫刻会を長谷川栄作、山本瑞雲、牧俊高と共に脱退。
  • 1917年(大正6年) 山本瑞雲、長谷川栄作、牧俊高らと中心になり栴檀社を結成する。          
  • 1921年(大正10年) 栴檀社解散。
  • 1931年(昭和6年) 内藤伸佐々木大樹、三国慶一、沢田晴広らと日本木彫会を結成す。
  • 1940年(昭和15年) 日本木彫会から分離し沢田晴広らと正統木彫家協会を設立し、毎年展覧会を開く。正統木彫家協会第1回展覧会に「聖徳太子」[89]「観音」「駒」を出品[90]
  • 1941年(昭和16年) 正統木彫家協会第1回展覧会に「傷つきたる鳥人」[91]「万葉想華」出品聖徳太子。彫刻会の一元化を目指して全日本彫塑家連盟が発足し、正統木彫家協会も改組してこれに加わる。
  • 1942年(昭和17年) 正統木彫家協会第2回展覧会(東京)に「大葉子」出品[92]、第2回展覧会正統木彫家協会(大阪)に「文殊」「虎」出品[93]
  • 1943年(昭和18年) 第3回正統木彫家協会展「関根僧正之像」出品[91]。正統木彫家協会第4回展覧会(大阪)に「山上の憶良」「翁」[94]「芭蕉」[47]出品。

企画展・没後

脚注

参考文献

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