三条城 From Wikipedia, the free encyclopedia 別名 三条嶋城城郭構造 平城築城主 (三条左衛門)築城年 平安時代?logo三条城(新潟県) 別名 三条嶋城城郭構造 平城築城主 (三条左衛門)築城年 平安時代?主な改修者 上杉景勝・甘粕長重(景持)・市橋長勝主な城主 池氏・山吉氏神余親綱・甘粕長重(景持)堀直清・市橋氏・稲垣重綱廃城年 1642年遺構 門指定文化財 なしテンプレートを表示 三条城(さんじょうじょう)は、新潟県三条市にあった日本の城。 長く信濃川沿いの須頃島(現在の三条市下須頃)に所在していたが、江戸時代初期に市橋氏が入封後に信濃川対岸(三条市古城町、後に同市元町)に新城が築かれて移転した[1]。 最初に城が築かれた時期は不明だが、平安時代に三条左衛門が築き、前九年の役の後、安倍貞任の郎党、黒鳥兵衛が攻め落としたという。 南北朝時代には南朝方の池氏の拠点となった。 室町時代になると守護代長尾邦景方の山吉久盛の拠点となり、応永30年(1423年)には、守護上杉房朝方の中条房資・黒川基実・加地氏・新発田氏に攻められるが、黒川基実・加地氏・新発田氏が寝返り落城しなかった。 戦国時代も代々山吉氏の居城となっていたが、山吉豊守が天正5年(1577年)9月に死去すると、嗣子がなかったために弟の山吉景長が山吉氏を嗣いだが、領地は半減されて木場城に移され、三条城には神余親綱が入った。 上杉謙信の急死により勃発した御館の乱で、神余親綱は栃尾城主の本庄秀綱と示し合わせて上杉景虎に与し、上杉景勝に対抗した。景虎死後も景勝に対抗していたが、山吉景長が城内の旧臣に呼びかけて内応を誘い、天正8年(1580年)6月に落城、親綱は自刃した。 その後景勝は三条城を応急普請し甘粕景持(長重)を城主に据え、天正9年(1581年)に勃発した新発田重家の乱において中継拠点として度々利用された。 上杉景勝の会津移封後は堀秀治の家老堀直政が城主となり、直政嫡男の堀直清が城代となった。慶長5年(1600年)の上杉遺民一揆の際に攻撃を受けるも堅守。慶長15年(1610年)に堀家が改易後、同17年には松平忠輝の附家老になった松平重勝が三条城の城主となった。 元和2年(1616年)、市橋長勝が三条城主に任じられ、信濃川の対岸東側にあらたに築城したが、市橋氏は在城5年で改易となり、稲垣重綱が入ったが寛永19年(1642年)、幕府により廃城となった。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 佐藤賢次「慶長五年の越後一揆」『三条市史研究』第6巻、2011年。 /所収:阿部哲人 編『上杉景勝』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 16〉、2025年5月、316頁。ISBN 978-4-86403-574-3。 関連項目 三条藩 本成寺 日本の城一覧 甘粕長重(景持) 新発田重家の乱 Related Articles