三枝氏
日本の氏族
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古代の三枝氏
三枝氏は三枝連(さいぐさのむらじ)の流れで、三枝連は天津彦根命の後裔であるという[3]。「三枝連」の由来は顕宗天皇の治世の時、諸氏を集めて祝宴が開かれた際、庭に三茎の草があり、これを天皇に献上して三枝連を賜ったという逸話に由来するとされる[3]。しかし、この説に『寛政重修諸家譜』は疑いを示している[3]。
山梨県甲州市に所在する柏尾山経塚は、出土した経銘文により平安時代の康和5年(1103年)に勧進僧の寂円により造営されたと判明する[4]。康和5年在銘の経筒には関係者として三枝守定・守継ら三枝氏の一族の名が見られる[4]。また、山梨県笛吹市の福光園寺本尊の吉祥天像は鎌倉時代の寛喜3年(1231年)に仏師の蓮慶により制作されたとする墨書銘を有し、檀越として三枝氏の一族の名も記されている[5]。
戦国時代・近世期の三枝氏
三枝氏について『寛政重脩諸家譜』が詳しく記すのは戦国時代(安土桃山時代)から江戸時代中期までである[6]。三枝虎吉は武田氏に仕えて活躍し、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡時には依田信蕃と一緒に駿河田中城に籠城した[6]。武田方の城が次々に滅ぼされる中、虎吉らの籠城する田中城は陥落せず、成瀬正一や攻め手の矢文が主君武田勝頼の最期を伝えてきた[6]。その時点では実際に勝頼が死亡したかは虎吉らにとっては不明であったが、穴山梅雪の使者が訪れたことにより城を退去した[6]。その後虎吉は長恩寺に隠棲し、次に嫡男の三枝昌吉と一緒に徳川家康に面会した[6]。その後は東雲寺に隠棲していたが、「織田信長が武田旧臣を捜し出して殺そうとしている」と聞きつけ、伊勢に逃走したという[6]。
同年6月の本能寺の変で信長が死亡すると徳川家に呼び出され、その後子孫は徳川家の家臣になった[6]。虎吉は徳川四奉行の一人となり、徳川氏の甲斐支配にも携わった。昌吉は徳川配下で活躍し、小田原征伐では頭を負傷して目に血が流れ込み、家臣に助けられて退いたという[6]。昌吉はその後も戦に出ており、最後は大坂の陣まで出陣している[6]。昌吉の子の三枝守昌の代から江戸幕府の寄合となった[6]。