天保元年(1830年)、越前丸岡藩主・有馬徳純の子として生まれる[1]。その後、徳純の養父である元藩主有馬誉純の養子となり、三男[1]として扱われる。幼名は剛之助、初名は有馬純恪(すみただ)。その後さらに、美作勝山藩主三浦義次の養子となる。
嘉永元年(1848年)11月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年11月22日、義次の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、従五位下・志摩守に叙任する。嘉永3年(1850年)4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永5年(1852年)閏2月28日、奏者番に就任する。安政7年(1860年)2月21日、27歳で死去。跡を養嗣子の弘次(義次の弟)が継いだ。