上ハンガリー公国

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上ハンガリー公国

Felső-Magyarországi Fejedelemség
Hornouhorské kniežatstvo
Orta Macar
1682年–1685年
Hungaryの国旗
1683年の上ハンガリー公国
1683年の上ハンガリー公国
地位 オスマン帝国の従属国
首都 カッサ(現在のコシツェ)
統治体制 公国
 
 1682年-1685年
テケリ・イムレ
歴史  
 確立
1682年11月19日
 滅亡
1685年10月15日
ISO 3166コード HU
先行
継承
ハンガリー王国
ハンガリー王国
現在 スロバキアハンガリールーマニアウクライナ

上ハンガリー公国[1](じょうハンガリーこうこく、ハンガリー語:Felső-Magyarországi Fejedelemség、スロバキア語:Hornouhorské kniežatstvo、トルコ語:Orta Macar)[2]は、オスマン帝国属国として短期間存在した歴史上の国家。ハンガリー人の貴族、テケリ・イムレによって統治された。

1664年ヴァスヴァールの和約締結以降、ハプスブルク家に対するハンガリー人の忠誠は低下した。ハンガリー貴族たちは、皇帝レオポルト1世聖ゴットハルトの戦い英語版での勝利を生かしてオスマン帝国からハンガリー領土を解放するのを拒否したことに不満を持ち、以降ハプスブルク家による統治はハンガリー人にとって利益にならないと考えるようになった。1671年には反乱を起こすも鎮圧された。その1年後にはミハーイ・テレキ英語版ががより大規模な反乱を起こした。これを受けた皇帝は、1673年ドイツ騎士団総長ヨハン・カスパー・フォン・アンプリンゲン英語版をハンガリー総督に任命し、忠誠心の弱い貴族やプロテスタントに対する激しい弾圧を開始。ハンガリー貴族はますます反ハプスブルク家感情を高めた。1680年テケリ・イムレが反乱の指導者になり、オスマン帝国およびトランシルヴァニア公国からの支援を受け始めた[3][4]

建国とその後

関連項目

脚注

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