上久世荘
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上久世荘(かみくぜのしょう)は、日本の中世に山城国乙訓郡西岡地域にあった荘園である。桂川の西岸、現在の京都府京都市南区久世上久世町、久世川原町、久世高田町の位置にあった。
もとは久世荘として平安時代末期から史料上に見られ始める。荘園の開発が進み、久世荘は四つの荘園に分かれたが、上久世荘はその一つ。鎌倉時代末期には北条氏得宗領であった。建武3年(1336年)、足利尊氏によって東寺鎮守八幡宮に寄進され、東寺領荘園となる。南北朝時代を通じて荘官である公文職をめぐり荘内に混乱が多々生じたが、真板(舞田)氏が公文に任ぜられ同職を相伝するようになり、東寺の荘園経営も安定した。しかし、14世紀末から細川氏被官の寒川氏が公文職を競望し始め、真板氏との間で争いが起こるようになり、その過程で細川氏や畠山氏といった有力武家勢力の影響を受けるようになった。
文亀元年(1501年)9月、細川政元が上久世荘内の公文寒川左馬允知行分を没収したことにより、荘内の公文保有地からの年貢が東寺に納められなくなる。また、公文職も東寺の手を離れ、荘園は武家領である公文分と東寺が保有する寺家分とに分かれた。その後も武家勢力の進出により、東寺の支配権は弱まっていき、織豊期に荘園としては終焉を迎えた。
上久世荘に関する史料は東寺旧蔵の文書に多く残されている[1][2]。そのため戦前から日本中世史研究者によって研究が進められている荘園であり[1]、日本の中世後期の荘園史研究にとって重要な荘園とされている[3]。
位置
荘域は乙訓郡条里十三条にあたる。広さは南北6町、東西12町[4][5]。耕地面積は55から60町ほどあったとされる[4][5]。具体的な場所としては桂川の西岸[6]、現在の京都市南区久世上久世町、久世川原町、久世高田町の位置にあたる[4][5]。荘園の南には下久世・東久世・本久世荘などがあった[4]。領主でもあった東寺とは、徒歩で1時間ほどの距離にある[1]。
上久世荘は山城国乙訓郡の西岡地域に含まれ、同じように桂川西岸に位置した荘園と合わせて「西岡諸荘」とも呼ばれた[7]。また、徳大寺・上桂・下桂・革島・下津林・寺戸・牛ヶ瀬・下久世・大薮・築山といった荘園の村々とつながり、「西岡十一ヶ郷」「下五ヶ郷」とも呼ばれる村落連合にも含まれた[8][9]。
沿革
鎌倉時代の上久世荘
もとは久世荘という荘園であったとされる[10]。久世荘の史料上の初見は承徳3年(1099年)の藤原通俊所領処分状案に見られる[11][10]。平安時代末期には安楽寿院領に編入された[12][10]。その後、荘園の開発が進み、久世荘は上久世・下久世・本久世・東久世に分かれた[13][10]。このうち上久世荘は鎌倉時代に安楽寿院領から北条氏得宗領に変わったと考えられている[13][10]。
上久世荘の史料上の初見は永仁7年(1299年)3月8日の重弘名名主職宛行状案に見られる[14]。この頃から鎌倉時代末期まで北条氏得宗領であった[14]。延慶2年(1309年)3月には執権北条師時によって、小胡麻五郎兵衛入道教意が上久世荘公文職に補任された[14]。
鎌倉幕府の滅亡後、元弘3年(1333年)8月には久我家領荘園となった[14]。久我家は沙弥道法を公文職に任じるなど、荘園の支配を進めたが、数年で支配権は東寺に移ることとなった[15]。
東寺による荘園支配
東寺領としての上久世荘は、建武3年(1336年)7月1日に南北朝戦乱の渦中にあった足利尊氏が「天下泰平、国家安寧」(実質的な戦勝祈願)を祈り、上下久世荘を東寺鎮守八幡宮へ寄進したことに始まる[16]。尊氏の寄進により、鎮守八幡宮は寺院の人員や法会を充実・安定化させることに成功した[17]。東寺鎮守八幡宮には30口の供僧が置かれ、上久世荘は供僧の評定によって支配されるようになった[18]。この評定の議事録として「東寺鎮守八幡宮供僧評定引付」という史料がある[19]。
建武3年9月、大弐房覚賢が尊氏の軍勢催促に応じた恩賞として上久世荘領家職半分を給わり、尊氏の御家人に列せられた[20]。この半済は暦応3年(1340年)に停止された[21][注釈 1]。東寺の支配はこの半済停止によって本格化、東寺は「知行始」として田地の実検を行い、一円支配が進められたとされる[23]。これに伴い、覚賢の子とされる真板(舞田)仲貞は御家人から東寺領上久世荘の荘官という地位に移ったと考えられている[24]。
公文職をめぐる混乱

南北朝初期の上久世荘の有力土豪としては、覚賢父子のほかに刑部入道道法や檀上兵衛行政がいた[27]。檀上氏は鎌倉期末の得宗領時代に荘官職である下司に就いていたが、南北朝期に入ると没落した[28]。道法とその子である末継は、東寺から補任された公文として荘務を取った一方で、足利尊氏の御家人となった覚賢と子息仲貞は武家側から公文として認められていた[29]。
道法は暦応4年(1341年)3月に東寺側から不当行為を訴えられ、公文職を没収された[30]。その後、上久世荘の公文職をめぐる相論は長引き、東寺も公文を補任できない状況となっていたが、観応元年(1350年)10月に真板仲貞が東寺に公文職請文を提出し、公文職に任ぜられた[31]。日本中世史研究者の上島有は、仲貞が公文職に任命され、真板氏に公文職が相伝された百年余りの期間が、東寺による上久世荘支配の最も安定した時期であったと評価している[32]。
ただし、観応の擾乱期(1350年 – 1352年)には、仲貞に代わり室町幕府から公文職に補任された竹田秀元や、道法・末継父子と仲貞との争いが続いた[33]。荘内も観応の擾乱までの南北朝期の混乱に巻き込まれ、有力農民層の多くが没落したとされる[34]。延文2年(1357年)ごろになると、混乱は収まり[33]、室町時代初期まで真板氏が公文職を相伝するようになった[35]。
武家勢力の進出
公文職が真板氏に落ち着いた後、しばらくの間、東寺による上久世荘支配も安定していたが、応永5年(1398年)、細川氏被官であり讃岐国の国人であった寒川元光(常文)が、鎌倉時代末に公文職保有者であった教意の娘伊子々から上久世荘の公文職を譲られたと称し[36][37]、公文職を競望し訴訟を起こした[36][37]。
寒川元光は数年にわたり度々訴訟を起こしたものの、東寺は真板氏を支持しており、上久世荘を実際に支配することはできなかった[36]。しかし、応永21年(1414年)、元光は室町幕府管領であった細川満元の支持を受け公文職を獲得し、荘務に関わるようになった[36]。この相論は、上久世荘に武家の介入を強めるきっかけになったと評価されている[37]。寒川氏は応永34年(1427年)まで公文職に就任したが、当該期の公文の活動状況を検討した高木純一によれば、寒川氏は年貢収納関係の文書作成といった荘務を行っておらず、公文としての活動実績は乏しかったと指摘されている[38]。
東寺は寒川氏の公文職の獲得と上久世荘支配を黙認した形をとった[39]。しかし、応永34年(1427年)に真板慶貞を公文職に補任した[39]。真板慶貞の公文職獲得は管領畠山満家の支援があったとされる[40]。上久世荘荘官は武家への奉公が禁じられていたが、慶貞は畠山氏への武家奉公が認められていた[41]。公文職を望んだ寒川氏と真板氏が、相論の過程でそれぞれ細川氏や畠山氏に結び付いたことは、公文が東寺から自立しつつあったことを表す現象であったとされる[42]。
その後も寒川氏と東寺との相論は続いた[41]。寒川氏は上久世荘への入部を試み、真板氏との合戦が生じたときもあった[41]。寒川との合戦により真板慶貞は死亡したとされる[41]。公文職は慶貞からその子である貞世に移ったが、嘉吉元年(1441年)、畠山氏は圧力をかけ真板氏から公文職を没収し、畠山氏重臣の遊佐氏を公文にした[41][37]。遊佐氏の公文時代は、実際の荘務は遊佐氏の家人が代官(公文代)となり荘務を行った[41][37]。
享徳3年(1454年)7月、遊佐氏が没落したことにより、真板・寒川両氏が再び公文職獲得のための運動を行う。この公文職をめぐる争いは、細川勝元が東寺に寒川之光(元光の子)への公文職補任の圧力をかけたことで、之光が享徳3年11月に公文職に補任される結末になった[43]。実際の荘務は一族の寒川光康が公文代として行った[44]。文正元年(1466年)に之光が没した後、公文職をめぐり寒川一族内で争いが生じたものの、公文代の光康は文明17年(1485年)までその地位にいた[44]。
応仁・文明の乱が発生すると、寒川氏は主君細川氏に従い東軍側に属したため、応仁2年(1468年)に上久世荘が位置した西岡地域が西軍畠山義就に占拠された際には、公文代の寒川光康も荘園を追われた[45]。西軍の支配下にあった時には、遊佐氏が荘園の管理を担っていたとされるが詳しくは不明である[46]。乱中には真板氏も西軍の山名氏につき、公文職の奪回を試みたこともあり、荘園内も東軍と西軍の二派に分かれたとされる[47]。
文明17年(1485年)に光康が死去すると、その子である家光がその地位を相続、家光の代になると公文代ではなく恒常的に公文を自称するようになった[45]。形式的には家光は公文代であり、公文は寒川氏の惣領家が任ぜられていたが、家光は実質的に上久世荘の荘務を担っていたことを自認していたため公文を称するようになったとされる[45]。
武家領化

明応8年(1499年)、細川政元が畠山尚順を討伐するため、政元配下の西岡中脈被官人の要求を受け山城国に半済を実施した[50]。東寺は半済の停止を求めて幕府から半済停止を命じる奉行人奉書を獲得したが、半済は強行された[49]。この半済によって東寺の年貢収入は大幅に減少するものの、翌年には半済は停止されている[51]。
文亀元年(1501年)、上久世荘公文職を保有していた寒川氏の宗家が失脚したことにより、細川氏家臣であった安富元家によって公文職が押領された[52]。安富元家は寒川氏が知行していた年貢や公事を抑留し、東寺の年貢催促にも強硬に拒否の姿勢を示した[52]。これにより、上久世荘内の公文保有地は武家領となり、東寺の支配は及ばなくなった[47]。公文職は細川政元により二宮氏が補任され、代官職は沢蔵軒宗益に与えられ、それまで荘務を担っていた寒川家光は宗益から代官職を「申付け」られる形となった[47]。田中倫子は、これによりそれまでの東寺の支配体制から、「給人-代官の支配体制が成立した」と評価している[53]。上久世荘公文分からの年貢は東寺に納められなくなり、東寺は公文分所領に対して検断権など荘園領主としての権限も行使できなくなった[54]。
永正元年(1504年)には、細川政元の近臣波々伯部源次郎に上久世荘公文分が宛行われた[52]。また、同年に山城国守護代香西元長が半済を行った[55]。この一連の押領や半済により、東寺の年貢徴収は大幅に減少し、東寺による上久世荘支配は大きく後退したとされる[56]。東寺に現納された年貢は安定期の10分の1まで減り、前年度未進分の年貢なども収められなくなったとされる[57]。
上久世荘公文分の武家領化の背景にあった細川政元政権は、永正4年6月に政元が殺害され終了したが、その後の細川高国政権においても波々伯部氏の支配は安堵された[58]。かつて公文代として活動していた寒川家光も断続的に代官を務めていたとされる[58]。しかし、永正13年(1516年)11月、「地下名主八人」が寺家分における寒川家光の代官職の解任を申し出たことにより、家光は代官を解任された[59]。家光の解任後、上久世荘の年貢収納や文書作成などの荘務は在地の「沙汰人」らが担うようになったとされる[60]。
16世紀初め以降、東寺による荘園支配は武家勢力の浸食によってだんだんと衰退していき、東寺は武家に対して本年貢の収取といった得分権を要求するほかなくなっていった[61]。一方で、細川政元政権側は、上久世荘公文分の東寺支配権を否定し、自身の被官を成敗したことによって生じた闕所を別の被官に与えることによって、権力基盤を拡大したとされる[62]。また、上久世荘に拠点を据えることは、細川氏にとって上久世荘を含む西岡諸郷や土豪に対する牽制にもなった[63]。
大永7年(1527年)に細川高国政権が崩壊したのち、上久世荘公文分は還付と没収を繰り返されたが詳しいことは明らかではない[58]。永禄11年(1568年)には、織田信長によって一色在通に上久世荘公文分が宛行われている[64]。天正13年(1585年)3月、上久世荘は豊臣秀吉によって東寺領として安堵されるものの、太閤検地によって荘園としての歴史は幕を閉じた[65]。
荘内構造
用水
上久世荘は桂川の西岸にあったため、桂川から用水を取得していた[6]。主な用水路には今井溝(西田井々溝、十一箇郷溝とも)と牛ヶ瀬溝(東田井々溝)があった[66]。用水施設は時期により位置の変遷があったが、室町時代中頃の例をみると、今井溝(十一箇郷溝)は松尾社東方の地点で桂川から取水し、上久世を含む西岡十一箇郷へ水を供給していた[67]。この用水路は下流で上六箇荘(徳大寺・上桂・下桂・革島・下津林・寺戸)に水を供給する上六箇郷溝と、下五箇荘(牛ヶ瀬・上久世・下久世・大薮・築山)に供給する下五箇郷溝とに分かれた[67]。用水施設はたびたび桂川の氾濫や旱魃による渇水の被害を受けたため[68]、上久世荘の荘民は頻繁に東寺に対して灌漑施設の復旧費となる井料の要求や、下行額の増額を訴えた[69]。
用水をめぐっては、近隣諸荘とたびたび用水相論が生じている。応永25年(1418年)には、引水量の不均等によって用水路下流諸荘と相論が発生した[70]。長禄年間(1457年 - 1460年)には、上久世荘を含む十一箇郷が松尾社神前田地内に新しく取水口として溝を掘ったことにより、松尾社との相論に発展した[71]。この相論は十一箇郷内の内紛もあり、寛正3年(1462年)まで続いた[71]。文明11年(1479年)にも再び松尾社との相論が発生している[71]。
年貢と収取形態
鎌倉時代までは、名単位をもとに支配されており、名田をもとに年貢や公事が徴収された[72]。鎌倉時代末になると、年貢などの徴収は土地所有者が単位となってくる[73]。暦応3年(1340年)の半済停止後は、完全に名田体制が解体され、土地所有者を微税単位とした荘園になったとされる[74]。
得宗領時代の年貢・公事について、元亨4年(1324年)には上久世荘の田地総面積53町1反140歩に対し、約230石の年貢米が徴収されたこと、そのうち井料(領主が支給した灌漑施設の修理費や維持費)などが引かれ、実際には225石9合が収められたこと、また、畠なども麦や蕎麦が年貢として徴収されたこと、公事などの人夫役などの賦課は銭納化されていたことなどが明らかにされている[75][注釈 2]。
東寺領時代の年貢額は228石4斗4升5合5勺とされる[77]。15世紀には、そこから公文得分や控除などで額の足し引きがあった[78][77]。これらの額は定められたものであり、実際に東寺に納められた額は、損免や井料、年貢未進などから定めよりも減少した[79]。15世紀の安定期(室町期)には200石前後が収められた。大きな損免や井料が生じた際には、139石ほどにまで落ち込むこともあった[80]。
年貢の納入期限は11月であり、12月になると公文が年貢算用状と公事銭算用状を作成し、収納状況を東寺に注進した[81][82]。東寺は6月(年度末にあたる)に昨年注進された算用状を下久世荘から注進された算用状と合わせ、寺家側で算用状を作成した[81][82]。東寺の許で作成された算用状は「久世上下庄年貢米幷公事銭算用状」と呼ばれる[81]。
未進があった場合、公文によって未進徴符が作成、算用状にも記載され翌年以降に徴収された[83]。荘内の状況や年貢の納入状況などは公文が把握しており(後には公文代)、東寺は公文を通じて年貢の徴収、荘園支配をする必要があった[84]。また、上久世荘の下地に対して加持子得分権を有していた名主も、自身が名主職を持つ土地の百姓が逐電し、年貢の未進が生じた場合には、その未進分を納める義務があったとされる[85]。水害などで井料負担が発生した際も、負担分が名主に懸けられることもあった[85]。
鎌倉時代末以降、荘園の農業生産力が向上すると、増加した生産物を収取する加持子得分が生じた[86]。この加持子得分権は譲渡や売買の対象ともなり、南北朝時代末期から室町時代前期には荘園外居住者が得分権を保持することも多々あった[87][88]。室町時代後期になると、荘内の公文や侍衆のもとに加持子得分権が集まり、荘民間の階層が開いたとされる[89][88]。
荘民
基本構成
荘官としては公文と下司が知られている[90]。史料上、公文職に補任されたとわかる初めての人物は小胡麻兵衛入道教意である[91]。下司は鎌倉時代末に壇上行政などが補任されていたが[91]、公文職と比べ早くに(14世紀ごろ)実態を失ったとされる[92][19]。公文や下司に補任された人物たちについて、上島有は彼らが土豪であったとしている[27]。公文に補任された真板氏は荘内のなかでも最大の田地面積の保有者であり、小作貸出地も多くあったとされる[93]。
室町時代には荘民の階層として侍衆(侍分とも)と百姓(地下分とも)との二階層があったと指摘されている[94][95][96]。侍衆のなかでも上層の者たちは年寄衆と呼ばれた[95][注釈 3]。彼らは利倉・和田・恋川などの姓があり、史料上「沙汰人」とも呼ばれ、公文の荘務を補佐する地位にいた[98]。侍衆の地位や経営規模は公文などと同程度であったとされ、土豪層であった[99]。公文も侍衆に含まれる[99]。
高木純一の調査によると、「沙汰人」は応永21年に寒川氏が公文職を獲得した以降、公文寒川氏が通常の荘務を行わなくなるなかで、公文の代わりに年貢収納などを行う百姓として東寺によって制度的に位置付けられた存在だとされる[100]。久留島典子によれば、沙汰人は公文と共に在地荘務を行うことで東寺の荘園支配を担っていた[97]。具体的には、東寺に対する在地状況の報告、年貢や公事などの収納、在地における土地所有の秩序維持、犯罪者の捜査や処罰を行っていたとされる[101]。15世紀後半以降、在地において東寺の領主としての存在感や役割が低下していくなかで、沙汰人や侍衆らは東寺による荘園支配の在地における重要な担い手になっていったとされる[102]。東寺と「契約」をし、寺家の被官になることもあった[103]。
16世紀には侍衆が細川氏家臣といった武家へ被官化する事例が増加していくことが指摘されている[104]。その背景には、荘内の侍衆同士の対立や相論があったとされる[105]。侍衆のなかでも、一族の中で傍流であった者や新興の者は東寺に対して被官化することもあったという[106]。
一方で百姓層は荘園の基本住民であったとされ、その多くが作人として直接田地を耕作していたと考えられている[107]。
東寺の支配が本格化した暦応3年(1340年)に作成された「暦応三年実検名寄帳」によれば、この時期には37人の土地所有者がいたとされる[108]。延文2年(1357年)には52人が確認されている[109]。上島有はこれらの土地所有者は荘園に「現存する百姓」であったとする[110]。また、彼らは名主職を所有、自作農が可能な5-6人の小家族であり、田畠の売買や譲渡、質入なども東寺から公認されていたとされる[111]。
貞和2年(1346年)7月に、「久世百姓」が公文職の職務を代行するとのことを東寺に提出した請文には「越前介・兵衛四郎・左近二郎・安大夫・浄円・向仏・経阿弥・善阿弥・朝念・性願・慶舜」ら11人の連署があり、彼らは上久世荘の上層農民であったとされる[112]。南北朝期には、彼ら荘官層や有力農民層は政情不安の影響を大きく受け、貞和2年7月の請文に署名した11名の有力農民の内、およそ半分が観応の擾乱までに没落し、多くの土地を手放し、逐電し土地を離れるといった状況に陥っている[113]。
荘家の一揆
上久世荘は民衆闘争史研究においても注目された[114]。特に荘園制下の民衆闘争の基本形態とされた「荘家(庄家)の一揆」と呼ばれる研究概念は、中世の一揆を分類した稲垣泰彦によって上久世荘関係の史料をもとに提唱されたものである[115][116]。稲垣は、荘家の一揆について「庄園領主に対し、年貢夫役の減免・非法庄官の排斥を要求しておこる」ものと説明している[117]。
上久世荘は、15世紀前半から荘園領主であった東寺と荘民との間で、損免や井料の下行などをめぐる交渉が多々行われた[118]。高木純一の調査によると、同荘では「荘家の一揆」が14世紀末から15世紀にかけて毎年発生していたとされ、恒常かつ日常的なものであったとされる[119]。東寺との交渉は主に公文や年寄衆が当たっていた[118][120]。
荘民らの要求は百姓申状といった上申文書に書かれた[121]。大規模な損免要求になった際には、百姓(小百姓)らも東寺まで赴き強訴するなど、侍衆と一体に行動することもあった[122][120]。また、稲葉継陽の研究によって、荘家の一揆のひとつである井料下行要求などでは上久世荘荘民が荘園の枠組みを超え、同じ桂川水系の用水路を使用する他の村々と一揆を形成していたことが明らかにされている[123]。
具体的な荘家の一揆の事例をみると、応永15年(1408年)9月には、旱魃による渇水や台風によって田地の多くが損壊したため、百姓らが百姓申状によって損免を東寺に訴えている[124]。訴えを受け東寺は5石の損免を認めたが、百姓らは納得せずさらなる増加を求め、最終的に12石の損免になった[124]。
永享9年(1437年)には、5月に発生した桂川の洪水で多くの田地に損害を受けた荘民が、収穫期の9月に東寺へ水損田地の検注を求めた[125]。荘民は全荘の検注や年貢(例年220石ほど)の約半分(100石ほど)の損免を求めたが、東寺側は一部地域の検注しか行わず、また損免も年貢の10分の1ほどしか認めなかった[126]。そのため上久世荘荘民は東寺に強訴し、損免の増加を得た(最終的には60石)[127]。
このような強訴や要求は15世紀を通じて度々あったが、上島有は、これら荘民の要求や強訴で獲得した損免や井料は全体の年貢からみるとわずかであり、永享9年の事例においても当初の損免額を得られていないことから、荘民らによる闘争は非常に困難を極めたと評価している[128]。一方で、東寺側は損免や損免を除く未進は年貢算用状に記録し、未進分は翌年以降確実に徴収しており、強固な支配体制を持っていたと評価している[128]。
荘内寺社
荘園鎮守となった寺社には蔵王堂と綾戸社がある[95]。この2社は荘民の精神的な紐帯となっており[95]、そこで行われた勤行も荘内の村に対する祈禱であったとされる[129]。
綾戸宮には宮座があり、その構成は「公文や侍分の者たちが中心であった他の側面とは異なり、より開かれたものであった」と指摘されている[129]。高木純一も、同宮座中は侍衆と一般百姓が合わさって構成されていたと指摘している[130]。
蔵王堂には住持がいたが、その補任権は東寺が有していた[131]。しかし、15世紀には公文代寒川氏によって住持が追放された事例や、同氏による強引な住持推薦が行われた事例などが確認されている[132]。一方で、蔵王堂の運営は実質的に荘民が担っていたことも指摘されている[133]。
その他にも大宝庵・華蔵庵・慈眼庵・馬場庵といった寺庵があった[95][134]。これらの寺社は荘内の中でも多くの土地を保有しており、侍衆から子弟が入ることもあったとされる[95]。また、一般百姓が共同で運営していた寺庵もあり、寺庵にも身分による階層差があったとされる[135]。多くの寺庵は五山を本山にしたとされるが[95]、敷地や付属物は東寺に属した[129]。