応仁の乱
応仁・文明年間(1467年 - 1477年)に行われた日本の内戦
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応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した日本の内乱。発生時の元号から一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁は僅か3年で文明へと改元されたため、応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある[1][2]。
室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、8代将軍の足利義政以降、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名による権力闘争が激化したことにより、幕府勢力が細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍に分かれ、幕府の主導権をめぐって争った[3]。
この乱は、東西両軍に属する各地の諸大名や諸勢力が上洛したことで、京都を主戦場とする大規模な争乱に発展した。また、京都のみならず、諸国にも争いが拡散するなど、11年にわたる大乱となった[注釈 1]。
最終的には西軍が解体されたことで終息したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受け、荒廃し果てた[4]。また、乱の終結後も畠山政長と畠山義就が畿内で戦闘を継続するなど、全ての争いが終わることはなかった[5]。
応仁の乱は明応2年(1493年)の明応の政変とともに、室町幕府の権威が失墜し、日本が戦国時代へ移行した原因とされる[注釈 2]。
背景
足利義政の8代将軍就任

鎌倉時代後期から公家をはじめとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力を付けて来た国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。
守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は、成立当初から将軍の権力基盤が脆弱で、三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)など宿老の影響力が強かった[7][8]。それは宿老や守護大名も例外ではなく、領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けていた[9][10]。こうした環境が、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まって、しばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった[9]。
幕府は、4代将軍の足利義持の弟で、くじ引きによって選ばれた6代将軍の足利義教は専制政治を敷き、守護大名を抑えつけて将軍の権力を強化したが、嘉吉元年(1441年)6月に赤松満祐に殺害された[11]。この嘉吉の乱を収束させたのは、管領の細川持之や畠山持国といった有力大名であった[11]。
嘉吉2年(1442年)6月、細川持之は畠山持国に管領を譲って隠居し、同年8月に死去した。また、7代将軍となった義勝(義教の嫡子)も就任1年足らずのうちに、嘉吉3年(1443年)7月に10歳で急逝した[12]。
義勝の死後、畠山持国邸おける幕府重臣らの衆議により[13]、義勝の同母弟である8歳の足利義政が次期将軍に選ばれた[12]。そして、文安6年(1449年)4月に正式に将軍職を継承した[12]。
細川氏・山名氏の連携と、畠山持国の隠居

畠山持国は足利義教の治世に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還した。そして、持国は義教によって家督を追われた者達を復権させ、その勢力を拡大した。
畠山持国には実子がなかったため、弟の持富を自身の後継者としていた[14]。だが、永享9年(1437年)に実子(庶子)の畠山義就(義夏)が生まれたため、文安5年(1448年)に持国は家督継承者を持富から義就に変更した[15]。これは足利義政にも認められ、義就は義政から偏諱を授けられている。
宝徳2年(1450年)、義政や乳母の今参局は斯波氏家臣の争いに介入し、織田郷広の尾張守護代復帰を支援した[16]。しかし、尾張守護の斯波氏がこれに反発し、畠山持国も義政に抗議した[17]。また、越前・遠江守護代の甲斐常治の意を受けた日野重子(義政の母)も反対し、宝徳3年(1451年)に京都から出奔したため、この件は頓挫した[17]。このように、義政の治世初期から近臣層と重臣層の対立がみられていた[17]。
さらに、畠山氏内部でも重臣の神保氏は持富の廃嫡に納得せず、宝徳4年(1452年)に持富が死去すると、その息子である弥三郎を擁立しようとする動きが強まり、家中の対立は深刻化していった[15][18]。そのため、享徳3年(1454年)4月3日、持国は弥三郎を擁立しようとした神保国宗らを、遊佐国助らに誅殺させた[15]。
この畠山氏の内紛に対し、細川勝元や山名宗全、そして畠山氏被官の多くが、勝元の下に逃れた畠山弥三郎を支持し、8月21日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃した[18][19]。難を逃れた畠山持国は8月28日に隠居を余儀なくされ、義就も京都を追われることとなった[18][19]。
その結果、義政は弥三郎と対面し、畠山氏の家督継承者と認めなくてはならなかった[18][20]。一方で、義政は弥三郎を匿った勝元の被官の処刑も命じ、喧嘩両成敗の形も取られた[21]。
しかし、山名宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた細川勝元に反発した。義政は宗全追討を命じたが、勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬国に隠居することで決着した。
12月6日、宗全が但馬国に下向すると、13日に畠山義就が軍勢を率いて上洛し、弥三郎は逃走。そして、再び義就が家督継承者となった[22]。
なお、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。
細川勝元と畠山義就の対立

享徳4年(1455年)3月26日、畠山持国が死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した[23]。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った[24]。
この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、次第に義政の信任を失った[24]。さらに、義就は細川勝元の所領である山城国木津を攻撃したため、勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で、山名宗全は長禄2年(1458年)に赦免され、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった[25]。
長禄3年(1459年)7月23日、弥三郎が赦免され[24][26]、9月には上洛を果たしたが、間もなく死去した[27]。弥三郎に代わって、弟の畠山政長が弥三郎派の家臣団に擁立され[24][27]、勝元の支持を得た。
寛正元年(1460年)9月15日、義就は義政に謁見し、弁明したようであるが、それは認められなかった[28]。また、同日に伊勢貞親が義就の被官である遊佐氏と誉田氏に対し、政長に畠山邸を引き渡すよう命じている[27]。
9月20日、義就が河内に下向し、遊佐氏ら被官は自邸を焼いた[27][28]。そして、義就は若江城に入ると、堺や和泉を攻撃したため、義政の怒りを買った[29]
9月26日、義政は政長と対面し、畠山氏の家督と河内・紀伊・越中の守護職を与えた[28][30]。さらに、閏9月8日に義政は朝廷に奏上し、義就に対する治罰綸旨の発給を求めている[28]。
10月、政長が大和の龍田において、義就に大勝した[29]。義就はこの戦いで、遊佐国助など父以来の有力家臣を失った[29]。
これにより、義就は河内の嶽山城に籠もって徹底抗戦を図ったため、義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた(嶽山城の戦い)[31]。しかし、義就は寛正4年(1463年)4月15日まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は紀伊国、次いで吉野へ逃れた[32]。
足利義政の関東政策と斯波氏

一方、関東では、享徳3年(1455年)に鎌倉公方(後に古河公方)の足利成氏が幕府に叛旗を翻し、享徳の乱を起こしていた。義政は成氏を討伐するため、長禄元年(1457年)7月に異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方と定めた[34]。
長禄2年(1458年)5月25日(6月8日とも)、政知は幕府から「天子御旗」を渡され、関東へ下向した[35]。だが、成氏の力が強大なため、政知は鎌倉へ下向できず、 伊豆国堀越に留まった(後の堀越公方)[34]。
義政は斯波義敏を中心とする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治と争いを起こし、関東に赴かなかった(長禄合戦)[36][37]。そのため、義政は義敏を更迭し、息子の松王丸(義寛)を斯波氏当主に替えた[36][38]
寛正2年(1461年)、義政は斯波氏の家督を松王丸から、政知の執事である渋川義鏡の子・斯波義廉に替え、堀越府の軍事力強化を企図した[39][40]。しかし、義鏡が扇谷上杉氏の上杉持朝と対立し、やがて失脚したため、義政は斯波義敏の復権を画策した[41]。
足利義政と政所執事

畠山氏や斯波氏の他にも、富樫氏、小笠原氏、六角氏でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。この政策は、室町幕府政所執事であり、義政側近の伊勢貞親が、将軍権力の向上を企図して主導したものであった。
さらに、寛正4年(1463年)8月、義政の母である日野重子が没すると、大赦が行われ、畠山義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。この前後の一貫性のない幕府の対応を興福寺別当の尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。しかし、この大赦には、斯波義敏の妾と伊勢貞親の妾が姉妹であることや、細川勝元への牽制などの動機があった[42]。
ところが、この伊勢貞親の政策の裏では、中央から遠ざかっていた山名宗全が斯波義廉に接近し、畠山義就、伊予国や安芸国で細川勝元と対立する大内政弘とも提携、反勢力の中核となっていった[43]。
嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は、その主謀者である赤松氏の再興に反対していた。だが、長禄2年(1458年)に勝元が宗全の勢力削減のため、長禄の変で赤松氏遺臣が功績を立てたことを根拠として、赤松氏の再興を許し[44]、赤松政則を加賀守護職に取り立てた[45]。そのため、勝元と宗全の両者は激しく対立した[注釈 3]。
足利義視の還俗と足利義尚の誕生

寛正5年(1464年)、足利義政は29歳になったが、自身の男子が早世するなどしたため、生存している足利宗家の男子は3名のみと、その断絶が危惧される情勢にあった[46][注釈 4]。そのため、義政は弟の義尋を還俗させ、自身の後継者とすることにした[47]。義尋は再三固辞したものの、義政が「自身に男子が出来ても幼少のうちに僧侶とし、神仏に誓って将軍職を譲る」と誓紙を出し、さらには細川勝元をその証人として立てたため、これに応じた[48][49][50][注釈 5]。
11月26日、義尋は還俗し、名を足利義視と改めると、今出川邸に移った。間もなく、義視は日野家から日野良子を迎え、正室とした[52]。良子は義政の正室である日野富子の妹であり、この縁組は義政と富子のとりもちによるものであった[46]。
寛正6年(1465年)11月23日、義政と富子との間に、足利義尚(後に義煕と改名)が誕生した。義尚は伊勢貞親の邸で養育されるなど[注釈 6]、出生当時から「世嗣」として扱われていた[54]。
他方、義視は義尚の誕生以降も、義政の後継者としての待遇を変らずに受け、順調に官位の昇進を続けている[55]。そのため、義視は義政から将軍職を譲られることを前提に、20歳以上離れた義尚が将軍となるまでの「中継ぎ」として扱われていたと考えられる[55][56][注釈 7]。
文正元年(1466年)7月30日、義視と良子との間に、足利義材(後に義稙と改名)が誕生した[52]。義材は義政の甥であると同時に富子の甥でもあり、義尚に万が一のことがあれば、代わりの後継者となり得る存在であった[51]。
富子の依頼により、山名宗全が義尚の後見人とされたという『応仁記』一巻本・三巻本の記述が従来の通説であったが[58]、近年では反証もあげられている[59][60]。実際に義尚の後見人であったのは「御父」とされた義政側近の伊勢貞親であり[61]、むしろ宗全は赤松政則を支援する義政側近と敵対していたため、義政の早期隠退と義視の将軍就任を望む立場であった[62]。また、『大乗院寺社雑事記』には、義視と宗全が共同して義就を支援していた記述が見られる[60]。
さらに、細川・山名の両氏が対立関係となるのは、寛正6年(1465年)から文明6年(1474年)までであり、勝元と宗全の対立を乱の原因とする理解は、『応仁記』一巻本・三巻本の叙述によるものであるとの見解も提起されている[63][64][65]。
文正の政変

文正元年(1466年)7月23日、足利義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ、斯波義敏に与えた。さらに、8月25日に義政は越前・尾張・遠江守護職を義敏に与え、義廉を討つよう命じている[66]。
しかし、勝元は義廉の討伐を拒否し、宗全も義廉について戦うと表明した[66]。貞親ら側近衆は守護大名の抵抗により、窮地に追い込まれた。
9月5日、伊勢貞親が義政に義視の誅殺を訴える事件が発生した。貞親のこの動きは、義視が義廉に近かったことのみならず、義視の将軍職襲職を阻止する意図があったとされる[67]。義尚の養育を任された貞親は、義視を中継ぎとすることを快く思っておらず、義政から義尚への継承を願っていたとみられる[68]。
義政も貞親の讒言を信じ、同日の夜に義視を捕らえて誅殺しようとした[69][70] 。だが、義視は夜陰に紛れて居館の今出川殿を脱出し、勝元の屋敷に入り、自身の無実を訴えた[71]。次いで、9月6日朝には宗全の屋敷に入り、同様に自身の無実を訴えた[72][73][35]。
そして、勝元と宗全は協力して、義政に義視の無実や貞親の排除を訴えた[74][75][76]。これを受けて、義政は貞親を切腹させるよう命じた。貞親は京都から逃亡し、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚した[77][78]。
この文正の政変により、有力な側近を失った義政の影響力は著しく低下し、その政治的立場を大きく後退させた[75]。また、14日に斯波氏の家督は斯波義廉に戻された。
経過
高まる緊張・両畠山氏による前哨戦

文正元年(1466年)12月、畠山義就が大軍を率いて上洛し、千本地蔵院(京都市北区)に陣取った[注釈 8]。寛正元年の追放以来、6年ぶりの上洛であった。
これまで連携していた細川勝元と山名宗全であったが、畠山氏の継承問題を巡っては立場を異にしていたため、両畠山の抗争が再び中央に持ち込まれ、緊張が高まると対立するようになる。ただし、宗全の斯波氏や畠山氏の継承問題への介入は、あくまでも赤松政則とその支持勢力に対する牽制であり、そこから長く連携を続けてきた勝元との決別にまで発展させることには、嫡男の教豊を含めた山名氏一門・被官の間でも不満があったとする指摘もある[79]。
文正2年(1467年)1月2日、義政は正月の恒例である春日万里小路の畠山邸(政長側)への御成を取り止めて[80]、室町第に義就を招いた。さらに追い討ちをかけるように、5日には義政は義視と共に山名邸の酒宴に出席して、義就・宗全側を支持する姿勢を示した[80]。
1月6日、義政は政長の管領職を罷免し、畠山邸を義就へ明け渡すよう命じた[80]。これに対して、勝元は室町第を包囲して将軍から義就追討令を得ようと企図したが、勝元夫人(宗全の娘)が事前に宗全に情報を漏らしたため、宗全・義就・斯波義廉(管領)が先手を打って室町第を占拠し[80]、勝元側は御所巻に失敗した。
1月18日、政長は自邸に火を放って、上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷き、抗戦の構えを見せた。義就は天皇や上皇らも室町第に避難させて、将軍とともに抱え込んだ[81]。他方、勝元・政長・京極持清の兵がこれを御所巻にした[82]。
ここに至って、義政は畠山氏の私闘への関与を禁じたが、宗全や山名政豊(宗全の孫)・斯波義廉・朝倉孝景(斯波氏宿老)らはこれに取り合わず、義就に加勢した[83]。義政の命に従って政長への加勢を止めた勝元は、「弓矢の道」に背くものとして非難を受けた[84][85]。
義就側は釈迦堂から出兵して御霊社の政長軍を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけて自害を装い逃走した。勝元邸に匿われたといわれる[83]。
義政の中立は将軍家近臣である奉公衆の主張によるもので、彼の本意であるかの確証はなく、合戦終結前に政長に対する治罰の院宣が出されていることや、政豊や義廉らが処分を受けた形跡がないことから、この時点の義政は宗全との連携に傾いていた可能性もある[86]。
大乱前夜

水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲
山名宗全らが室町第を占拠したことにより、幕府中枢から排除された格好となった細川勝元は御霊合戦の後も没落せず、なお京都に留まり続けていた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていたが[87]、勝元も代々管領職を務める細川京兆家当主の立場で、独自に(管領の職務である)軍勢催促状や感状の発給、軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行った[88]。そして、四国など細川氏一族の分国からも兵を京都へ集結させるなどしたため、緊迫した状態が続いた。
応仁元年(1467年)4月[注釈 9]、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。また、細川方の兵は宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。
5月20日、宗全は評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上の兵力だったというが、これは誇張と考えられる。
京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。守護分国の分布では、東軍が細川氏一族の畿内と四国に加えその近隣地域の自派の守護、西軍は山名氏の他に細川派の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。
当初の東軍の主力は細川氏・畠山政長・京極持清・武田信賢に文正の政変で失脚した赤松政則・斯波義敏を加えた顔ぶれで、西軍の主力は山名氏・斯波義廉(管領)・畠山義就・一色義直・土岐成頼・大内政弘であった[89]。
開戦と東軍の足利義視推戴

応仁元年(1467年)5月、東軍は赤松氏(かつての播磨守護)一門の赤松政則が、山名氏分国の播磨国に侵攻し奪還した。また、武田信賢・細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ、斯波義敏が越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。
そして、5月26日に京都での戦いが始まる(上京の戦い)[90]。夜明け前、東軍は成身院光宣(興福寺衆徒)が室町第西隣の一色義直邸に近い正実坊を、武田信賢が実相院を占拠した[91]。武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃し、義直は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。
細川勝元は戦火から保護するという名目で室町第を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。勝元は匿っていた畠山政長を含む自派の諸将兵に応じるよう呼びかけた。また、西軍についた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された[92]。
京都で開戦した26日、西軍は斯波義廉(管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が山名宗全邸南側の細川勝久邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。東軍の赤松政則は南下して正親町を通り、猪熊に攻め上って斯波勢を退け、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿・革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。この合戦による火災のため、京都は北の船岡山から南の二条通りまでの一帯が延焼した[93]。
28日、義政は両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には河内下向を指示した。また、伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど、乱の収束と復権に向けた動きを取っていた[94]。
ところが、6月3日に勝元の要請によって将軍の牙旗が東軍に下され、足利義視が総大将に推戴されたことで[95]、戦乱は拡大する方向に向かっていった。東軍は軍事行動を再開し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに、義政が降伏を勧告すると斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが[96]、東軍は義廉邸も攻撃した。
京都は再び兵火に巻き込まれ、南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。義廉・六角高頼・土岐成頼はいったんは降伏の意向を示したが、東軍に激しく抗戦する朝倉孝景(斯波氏宿老)の首級を条件とされたため断念した[97]。
大内政弘の入京と足利義視の出奔
応仁元年6月14日、古市胤栄が、次いで19日に越智家栄が西軍の求めに応じ、それぞれ大和国から上洛した[98]。また、19日には紀伊国の畠山政国も上洛するなど、西軍のもとに援軍が到着し始めた[98]。
7月20日、大内政弘が周防・長門の両国のほか、筑前・筑後・豊前・安芸・石見、さらには伊予国の河野通春からなる8か国の軍勢数万、兵船500~600艘を率い、摂津兵庫に上陸した[99]。
京都での戦況は膠着状態だったが、勝元は大内勢の上洛よりも先に西軍に勝利する必要性を感じ、7月24日に総攻撃を命じた[100]。だが、西軍は大内勢の入京まで持ちこたえるべく、必死に応戦したため、東軍の総攻撃は失敗した[100]。
8月23日、大内政弘が軍勢を率いて入京し、東寺に陣取った[101]。これにより、西軍はその勢いを回復した[102]。
同日、勝元は細川教春らを御所に遣わし、後土御門天皇と後花園上皇に遷幸を奏請した[103]。これを受け、天皇と上皇が三種の神器を奉じ、室町第に遷幸した[101][103]。以後、天皇と上皇は室町第を仮住まいとし、義政らと居を共にすることになった[103]。
だが、同日に足利義視が京都から出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した[104]。義視の出奔理由は定かではないが、西軍の優勢を見て身の危険を感じたとも、山名宗全らとかねてから親しかったことで西軍への内応を疑われたためともされる[104][105]。
8月24日、大内政弘は東寺から船岡山に陣替えした[101]。
激化する戦乱

応仁元年9月1日、等持寺に攻めかかった武田勢を畠山義就・朝倉孝景が追い払い、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った[106]。
9月6日、義政は義就に対し、河内下向を再度命じたが、義就は従わずに戦いを続けた[注釈 10]。
9月13日、畠山義就が内裏と仙洞御所に陣取った[108]。その後、葉室教忠や阿野季遠ら西軍方の公家衆が番衆として置かれた[109]。
9月18日、京都郊外の南禅寺山で、東西両軍の戦いが起こった(東岩倉の戦い)[108]。この戦いにより、南禅寺上生院が炎上した[108]。
10月3日、東西両軍による相国寺での戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出した(相国寺の戦い)[110]。だが、両軍の勝敗を決するには至らなかった[111]。しかし、焼亡した相国寺跡には斯波義廉が陣取り、また義就は宗全邸の西に進出し、東軍は劣勢に立たされた[111]。
10月3日、後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰の院宣を発している[111][112]。また、義政も興福寺に御内書を下し、味方になるよう伝えている[111]。
10月5日、山名宗全・畠山義就・斯波義廉は興福寺と東大寺に連署書状を発給し、領地の寄進をするので西軍に味方するよう伝えている[113]。
応仁2年(1468年)3月17日、大内政弘と東軍の毛利豊元・小早川煕平が、北大路烏丸で交戦した[114]。
3月21日、東軍の足軽大将である骨皮道賢が、山名氏ら西軍の諸大名らの攻撃によって討死し、稲荷社が全焼した[115]。この骨皮道賢は勝元に抜擢された人物で、稲荷山の稲荷社に陣を張り、西軍の補給路を断つなど撹乱攻撃を繰り返していた[116]。
5月2日、細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日には勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。
西軍による古河公方接触・斯波義廉の管領解任

管領の斯波義廉は西軍に属したものの、義政から直ちに解任されなかった。また、将軍が主宰する御前沙汰なども、管領不在のまま行われていた[117]。
だが、応仁2年(1468年)、義廉は幕府と敵対していた古河公方の足利成氏に和睦を提案し、山名宗全と畠山義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて、家督と管領職の確保を狙ったと推定される[118]。義廉の書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる[118]。
4月、成氏が義廉から返事を受けた[119]。その内容は、成氏が申請した和睦に関して、義廉や山名宗全、畠山義就が了承したというものであった[120]。成氏はそれまでの間、「都鄙和睦」について何度か申請していたとされる[120]。なお、西軍に成氏討伐を命じた人物がいないことから、これは和睦ではなく、軍事同盟であったとする見方もある[121]。
しかし、義政は独断で成氏と和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を管領から解任して、勝元を管領に任命した。また、義廉の斯波氏家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。
足利義視の西軍入り・幕府の東西分裂

応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は、足利義政や細川勝元らの説得に応じて京都に戻り、東軍に帰陣した[122]。帰京した義視は義政に対し、義政側近の公家である日野勝光(富子の兄)の排斥を訴えたが受け入れられず、逆に義政の怒りを買った[123][124]。
閏10月16日、義政は文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなど、義視に対して報復を行った[125]。勝元も義政の意向を汲んだのか[126]、義視に味方せず、かえって出家をすすめた[127]。そのため、義視は東軍内で孤立を深める形となった[128]。
こうして、11月13日に義視は京都から再度出奔して、比叡山延暦寺に逃れた[128]。義視が出奔した直接の原因は、日野勝光・富子兄妹にあったとされ、自身の命の危機を実感したからとみられる[129]。
西軍は将軍である義政を擁する東軍に対し、その正統性を主張できずにいたため[130][131]、山名宗全が比叡山に使者を出して[130]、11月23日に義視を斯波義廉の邸宅(陣)迎え入れた[130][122][132]。そして、大内政弘ら西軍諸将は義視の西軍入りを喜び、義視のことを将軍として奉じた[133][131]。
義政はこれに激怒し、12月5日に義視から正二位・権大納言の官位を剥奪させたほか、後花園法皇に追討を命じる治罰の院宣まで出させ、義視を朝敵として扱った[128][134][133]。また、同日に正親町三条公躬(公治)や阿野季遠、阿野公煕、葉室教忠、清水谷実久、橋本公国、西川房任、河鰭公益といった公家も、官位を剥奪された[135]。彼らは、日野勝光・富子兄姉の属する日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。
ここに、義政を戴く「東幕府」(室町幕府)と、義視を擁する「西幕府」が対峙する事態となった[132][131]。
西幕府は将軍(義視)・管領(義廉)を有し、正親町三条公躬や葉室教忠ら公家も義視に祗候したことで、その体裁を整えていった。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。
東幕府では一方、日野勝光や伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降、勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していった[136]。
大内軍の山城制圧と戦線の膠着
大内政弘の圧倒的な軍事力によって、山城国は西軍に制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなって、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。そのため、東軍は反大内氏の活動を活発化させた。
文明元年(1469年)には、九州の大友親繁・少弐頼忠が教幸(政弘の叔父)を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470年)2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかし、いずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。
これ以降、東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって、何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化し、荒廃した[137]。
さらに、上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである[137]。
やがて、東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった[137]。
各勢力の動向
東軍は将軍の足利義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して官軍の体裁を整えていた。そのため、西軍は賊軍の立場に置かれていた。
他方、正親町三条家・阿野家・葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は、足利義視とともに西軍に投じていた。さらに、西軍は「西陣南帝」と呼ばれた後南朝の皇子(小倉宮後裔)を担ぐなど、朝廷も一時分裂状態に陥った。
宗教勢力の動きでは、蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている[138]。ただし、この一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。
関東や九州では鎌倉公方や少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、大乱以前から長い戦乱状態にあった。室町幕府が直轄しない関東八ヶ国及び伊豆・甲斐(鎌倉府管轄)は享徳の乱の最中にあったが、義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側が西軍と連携する動きもあった[139]。文明7年には、関東管領の上杉顕定の後見人(実父)である越後守護の上杉房定が、西軍に属する能登守護の畠山義統とともに、東軍の畠山政長が領する越中を攻撃している[140]。
| 勢力 | 領国 | 西軍
☆印は西軍から東軍へ寝返った武将 |
東軍
◆印は東軍から西軍へ寝返った武将 |
備考 |
|---|---|---|---|---|
| 足利氏 | 奉公衆領 奉行衆領 | 足利義視(義政の弟)★ | 足利義政(第8代将軍) 足利義尚(第9代将軍) | 将軍家 |
| 吉良氏 | 三河 | 吉良義藤(東条家) | 吉良義真(西条家) | 御一家 |
| 渋川氏 | 肥前 | 渋川教直(肥前守護) | 九州探題 御一家 | |
| 今川氏 | 駿河 | 今川義忠(駿河守護)× | ||
| 仁木氏 | 伊勢 伊賀 丹波 |
仁木教将(伊勢仁木氏) | 仁木政長(伊賀守護) 仁木成長(丹波仁木氏) | |
| 斯波氏 | 越前・遠江 尾張 |
斯波義廉(管領・渋川系当主) 織田敏広(尾張守護代・岩倉家) | 斯波義敏(大野系当主) 斯波義寛(義敏の子) 斯波持種(大野家)× 甲斐敏光(越前遠江守護代)◆ 朝倉孝景◆ 織田敏定(清洲家) | 管領(1467-77年) 三管領家 ※武衛騒動も参照 |
| 畠山氏 | 河内・紀伊・越中 能登 |
畠山義就(総州家) 畠山政国(義就の猶子)× 遊佐就家 畠山義統(能登守護) | 畠山政長(管領・尾州家) 神保長誠(越中紀伊郡守護代) 遊佐長直(河内守護代) | 管領(-1467,73,77年-) 三管領家 |
| 細川氏 | 摂津・丹波・讃岐・土佐 和泉 備中 淡路 阿波・三河 伊予 |
細川勝元(管領・宗家)× 細川政元(勝元の子) 細川政国(典厩家・政元後見) 安富元綱(執事)× 安富元家 内藤元貞(丹波守護代) 細川四天王(讃岐守護代等) 細川勝益(土佐守護代) 長宗我部文兼 細川常有(和泉上半国守護) 細川政久(和泉下半国守護) 細川勝久(備中守護) 細川成春(淡路守護) 細川成之(阿波三河守護) 東条国氏(三河守護代)× 三好長之(阿波郡守護代) 三好之長(長之の子) 細川賢氏(伊予守護) | 管領(1468-73年) 三管領家 | |
| 一色氏 | 丹後・伊勢 尾張 三河 |
一色義直(宗家) 一色義春(義直の子) 一色義遠(尾張分郡守護) 一色政照(三河分郡守護) 一色時家 | 四職 七頭 | |
| 京極氏 | 近江・隠岐 出雲 飛騨 |
京極乙童子丸(勝秀の子)★ 京極政光(持清の次男)★× 多賀清直★ 三木久頼★× | 京極持清(侍所所司)× 京極勝秀(持清の嫡男)× 京極孫童子丸(勝秀の嫡男)× 京極政経(持清の三男) 多賀高忠(侍所所司代) 尼子清定(出雲守護代) | 侍所所司(-1466年) 四職 佐々木氏庶流 ※京極騒乱も参照 |
| 赤松氏 | 播磨・備前・美作・加賀 |
有馬元家(赤松分家)× | 赤松政則(侍所所司) 浦上則宗(侍所所司代) 宇野政秀(赤松分家) 小寺則職 松田元成 | 侍所所司(1471年-) 四職 |
| 山名氏 | 但馬・播磨 因幡 伯耆・備前 石見・美作 備後・安芸 |
山名宗全(宗家)× 山名教豊(宗全の子)× 山名政豊(教豊の子) 山名豊氏(因幡守護) 山名教之(伯耆備前守護)× 山名豊之(教之の子)× 山名政清(石見美作守護) | 山名是豊(宗全の子) | 四職 1474年以降は東軍 播磨・備前・美作は赤松氏に奪還された |
| 伊勢氏 | 山城 三河 |
伊勢貞藤(貞親の弟) 飯尾為数(恩賞方)× | 伊勢貞親(政所執事)× 伊勢貞宗(貞親の嫡子) 伊勢盛定(後北条氏の祖・伊勢宗瑞の父) 蜷川親元(政所執事代) 戸田宗光 松平信光(徳川氏の祖) | 政所執事 将軍養育係 |
| 土岐氏 | 美濃 伊勢 |
土岐成頼(美濃守護) 斎藤利藤(美濃守護代) 斎藤妙椿(利藤の後見) 斎藤妙純(利藤の弟) 石丸利光 | 富島光仲 長江景秀× 長江利景(景秀の子) 土岐政康(伊勢半国守護→解任) | |
| 富樫氏 | 加賀 |
富樫幸千代(政親の弟) | 富樫政親(加賀半国守護)◆ | |
| 小笠原氏 | 信濃 |
小笠原清宗(府中家) | 小笠原政秀(信濃守護・鈴岡家) 小笠原家長(松尾家) | |
| 姉小路家 | 飛騨 |
姉小路勝言(宗家。小島家) | 姉小路基綱(古川家) 姉小路之綱(向家) | 飛騨国司家 |
| 北畠氏 | 伊勢 |
北畠教具(伊勢国司・伊勢半国守護)× 北畠政郷(教具の子) 木造教親(北畠分家)× | 伊勢国司家 [注釈 11] | |
| 武田氏 | 若狭・丹後 安芸 |
武田元綱(安芸分郡守護)★ | 武田信賢(若狭丹後守護)× 武田国信(信賢の弟) 逸見繁経× 粟屋賢家 | |
| 六角氏 | 近江 |
六角高頼(宗家) 山内政綱(後見) 伊庭貞隆 | 六角政堯(→近江守護)× | 佐々木氏嫡流 [注釈 12] |
| 大内氏 | 長門・周防・豊前・筑前 石見 |
大内政弘(宗家。周防長門豊前守護) 内藤弘矩 陶弘護(周防守護代) 相良正任 益田兼堯 | 大内教幸(政弘の伯父)◆ 内藤武盛(長門守護代)◆ 仁保盛安◆ 吉見信頼◆ | |
| 河野氏 | 伊予 | 河野通春(予州家) | 河野教通(宗家) | |
| 少弐氏 | 豊前・筑前 |
少弐教頼(筑前守護)× 少弐政資(教頼の子) | ||
| 宗氏 | 対馬 | 宗貞国(対馬守護) | ||
| 大友氏 | 豊後・筑後 | 大友親繁(豊後筑後守護) | ||
| 菊池氏 | 肥後 | 菊池重朝(肥後守護) | ||
| 島津氏 | 薩摩・大隅・日向 |
島津季久(豊州家) 島津久逸(伊作家)★ 島津国久(薩州家)★ 島津友久(相州家)★ | 島津立久(宗家。薩摩大隅日向守護)× 島津忠昌(立久の子) | |
| 国人衆 | ||||
| 信濃 |
木曾家豊 | |||
| 飛騨 |
江馬左馬助 内ヶ島為氏 | |||
| 伊勢 | 長野政高★ | 関盛元 | ||
| 近江 |
朽木貞綱 蒲生貞秀 | |||
| 大和 |
越智家栄 古市胤栄 古市澄胤(胤栄の弟) | 筒井順永 成身院光宣(順永の兄)× 十市遠清 箸尾為国 | ||
| 安芸 |
小早川盛景(竹原家) 小早川弘景(盛景の子) 小早川弘平(弘景の子) 毛利豊元★ | 小早川煕平(沼田家)× 小早川敬平(煕平の子) 吉川経基 | ||
| 肥後 | 相良為続★ | 阿蘇惟歳 | ||
| 日向 | 伊東祐堯★ |
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その他
細川勝元と山名宗全の死去
文明3年(1471年)5月21日、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、義政による越前国守護職補任を受けて、東軍側に寝返った。本来、越前守護職は斯波氏のものであったが、これが臣下のはずの朝倉氏に与えられ越前一国の支配権を公認された形となった、まさに下剋上である。
西軍の主力の移籍により、東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方の足利成氏の追討を再開する余裕すらも生まれた。また、同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった[142]。
一方、西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して、「新主」とした(西陣南帝)[143]。この人物の擁立背景には、東軍が後土御門天皇らを擁していたことから、朝敵として扱われた西軍の正統性を確保する目的があった[144]。なお、畠山義就は自身の所領が南朝皇胤の所領と重なることから擁立に躊躇したが、義視ら諸将の説得を受けて了承している[143]。
文明4年(1472年)正月になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めたた[145]。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還されたうえ、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。
3月、勝元は猶子の勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を後継者とした後、剃髪した。
5月、宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫の政豊に譲り、隠居する事件が起きた。桜井英治は、これを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている[146]。伊藤大貴はそれに加えて、播磨・備前・美作が赤松政則に全て奪還されたことで所領を喪った一部の庶子家や被官の間でや東軍の調略もあって主家からの離反の動きが始まり[注釈 13]、宗全は山名氏惣領としての責任を問われる事態となっていたことも指摘する[147]。
足利義政の将軍職譲渡と和睦交渉

文明5年(1474年)12月19日、義政が嫡子の義尚に将軍職を譲った[149]。ただし、義政は室町殿として、実権を握り続けた[149]。
幕府では、文明3年に長らく空席だった侍所頭人(所司)に赤松政則が任ぜられ、政所の業務も文明5年になると政所頭人(執事)伊勢貞宗によって再開されるなど、幕府業務の回復に向けた動きがみられた。管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、再び空席になってしまったために富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行した[117]。一方で富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。
文明6年(1474年)3月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町第には富子と義尚が残された。興福寺別当の尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している[150]。だが、義政の大御酒が平時と異なったのは、室町第に退避していた後土御門天皇もその酒宴に加わっており、幕府のみならず朝廷の威信の低下にもつながる事態となっていた[151]。
4月3日、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立した[152]。そして、山名氏は義政に赦免されたのち、大内政弘ら西軍諸将に和睦を通達した[153]。ところが、政弘ら西軍諸将は義尚が将軍であるにもかかわらず、義政と義視が和与しなければ和睦には応じないとし、和睦を事実上拒否したため、山名氏のみが和睦するに留まった[153]。
そのため、山名政豊は東軍の細川方と共に大内政弘や畠山義就らを攻撃した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子・義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。また、赤松政則は和睦に反対し続けていた。
一方、西軍の土岐成頼の重臣である奉公衆の斎藤妙椿も文明6年の和睦に反対し[154]、美濃の兵を率いて、近江・京都・伊勢に出兵した。更に越前にも出兵し、同年6月に西軍の甲斐敏光(斯波義廉の重臣)と東軍に寝返っていた朝倉孝景を停戦させている。
終息

文明7年(1475年)2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命された[155][注釈 14]。しかし、斯波氏の分裂に乗じて遠江進出を狙っていた隣国駿河を治める東軍方・今川義忠は遠江が甲斐氏の下で東軍方に収まることを快く思わなかった[157]。
11月、西幕府の管領で敏光の主君であった斯波義廉も、守護代の織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶った[155]。
文明8年(1476年)2月、遠江に出陣して同じ東軍方である斯波義良・甲斐敏光方の攻撃を始めた今川義忠が斯波方の一揆の襲撃を受けて戦死してしまった[158]。
文明8年(1476年)6月、和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫した[155]。
文明8年(1476年)9月14日、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、和平を提案した[159][155]。
11月13日、室町第が惣門近くの酒屋の火災により、類焼する被害にあった[160]。そのため、義政らは小川第に、後土御門天皇らは北小路第に移った[160]。
12月20日、義政は足利義視が恭順を誓ったことを受けて、義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速した[161][162]。
文明9年(1477年)正月14日、義視は日野富子に対して、義政との和睦の仲裁を依頼し、見返りに3千疋(30貫文)を贈ることを約束した[163][164]。だが、義視には支払う財力がなかったため、5月3日に政弘がこれを肩代わりしている[163][164]。また、政弘も仲介の礼銭として、富子に5千疋を納めている[164]。
7月、義視の娘である祝渓聖寿が義政・富子夫妻の猶子となり、曇華院に入室した[165]。また、同月には政弘より、義視の娘を義尚の御台所にすることが提案された[165]。これらは義視と義政の融和を示そうとしたものであり、西軍諸将の義政への帰参も進んだ[166]。
9月22日、主戦派の畠山義就が大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、京都から河内国に下国した[167]。
10月、斎藤妙椿が美濃・尾張・近江の三国の軍勢を率いて、上洛した[168]。
11月3日、大内政弘が東幕府に正式に降参し、足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された[168]。
11月11日、大内軍が京から撤収し、土岐成頼や能登守護の畠山義統も京の自邸を焼き払って帰国した[168]。なお、西陣南帝は「諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」[169]とされているものの、その後の消息は不である[注釈 15]。
同日、義視は正式な赦免を受けないまま、嫡子の義材(後の10代将軍)や側近の公家、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した[170][171][172]。ここに、西軍は解体されることとなり、11年に及ぶ京都における大乱の幕が降ろされた。
11月12日、義政は武家伝奏を派遣し、後土御門天皇に大乱終結を報告した[173]。
11月20日、幕府は「天下静謐」の祝宴を催した。公武の面々が大乱終結を祝うべく、義政のもとに参賀した[173]。
一部の大名は大乱終結時点では正式な赦免を受けていなかったが、文明10年(1478年)6月に斎藤妙椿によって仲介がなされ、7月に義視と土岐成頼・畠山義統の赦免が認められた[172]。ここに、一連の争乱の原因とみなされた畠山義就以外の全ての武将が赦免を受けることになった[174][175]。
8月、義視の使者である伊勢貞職(貞藤の子)や土岐成頼の使者が美濃から上洛したほか、畠山義統の使者が能登より上洛し、義政からの赦免の御礼を行った[172]。これを受け、8月23日に義政と義視が正式に和解することとなった[176][177]。
畠山義就の赦免
西軍が消滅したとはいえ、それは単に京都での戦闘が終結したということに過ぎなかった。畠山義就は京都での退去後にも幕府の命令に従わず、河内国を占拠して政長方を駆逐し、続いて大和国に侵攻した[178]。さらに、義就は政長が守護を務めていた山城国に侵攻した。
文明14年(1482年)末から文明15年(1483年)にかけて、義就が宇治以南の南山城を占拠し、幕府の命令が届かない状態となった[179]。義尚や富子は政長を見限って義就を赦免しようとしたが、義政の反対で中止された[180]。
文明16年(1484年)、政長が山城守護職を解かれ、山城は幕府の直轄(御料国)とされたが、戦乱はなおも続いた[180]。
文明17年(1485年)7月、義就方の斎藤彦次郎が政長方に寝返ったことにより、義就方と政長方の大軍が対峙することになった。しかし、山城国の国人が団結し、撤退しなければ攻撃すると両軍に通達し、義就・政長らは山城国より撤退した[181]。以降、国人たちは山城国一揆を組織し、一種の自治的な政権をつくることとなる[182]。
一方で、義就は山城国より撤退したことが評価され、文明18年(1486年)3月に義政と義尚から正式に赦免され、応仁の乱の戦後処理はここに完了した[183]。
各地の戦乱
摂津・河内・和泉・山城
摂津・河内・和泉(摂河泉と呼ばれる)3ヶ国のうち摂津・和泉は細川氏が、河内は畠山氏が守護を務めていた。しかし、畠山氏がお家騒動で混乱し、応仁の乱で大内政弘が西上して京都の戦闘が各地に及ぶと、近郊の摂河泉は東西両軍の衝突地域となっていった。また、山城国は畠山氏の領国であるが、細川勝元が畠山持国への対抗から山城国人を被官に加え、畠山持国の弱体化を目論みお家騒動を煽った影響で山城国は義就と政長どちらに付くかで分裂した。
畠山義就は乱直前の足利幕府への工作で守護職を取り戻し、御霊合戦で畠山政長を破り立場を固めた。ところが、政長を援助していた細川勝元が諸国の軍勢を動員すると、幕府から守護職を取り上げられ政長に替えられ、再び地位を失うと義就は実力行使で領国奪取に動いた。
一方、大内軍は上洛して西軍の主力として京都で東軍と戦っていたが、文明元年4月に義就が山城国西岡を攻めて陣取っていた西軍を丹波国へ追い落とし(西岡の戦い)、山城勝竜寺城へ入って摂津・丹波付近を伺うようになると、大内軍も7月に摂津国へ侵攻して諸城を落とし、摂津の殆どを制圧した。
しかし、池田城だけは城主の抵抗で持ちこたえ、10月に山名宗全の次男の山名是豊と赤松政則が東軍の援軍として大内軍を撃破して兵庫を奪還したため、大内政弘は池田城の包囲を解いて東軍迎撃に向かった。これに対し、是豊は摂津神呪寺に着陣して大内軍と戦い、その後は東進して摂津と山城の国境の山崎に布陣した。
文明2年1月から4月にかけて山崎の是豊と勝竜寺城の義就が交戦したが決着は着かず、5月に東軍の裏工作で摂津国に留まっていた大内氏家臣の仁保弘有が寝返り、直後に茨木城と椋橋城が東軍に奪回され、反撃の契機となった。一方、大内政弘は南山城の木津川流域を攻撃目標として、7月に八幡へ進出して木津を除く南山城を制圧した。だが、木津に拠点を構える東軍の抵抗は激しく、大内軍は木津を奪えないまま下狛(精華町)に待機して、一進一退の状況を続けていった。
義就は8月に山城国から大和国を経て河内国へ侵攻、若江城と誉田城を包囲したが落とせず、撤退した。山名是豊は領国の備後で西軍が蜂起したため、12月に下向していった。山城国は山名是豊が東幕府から守護に任じられていたが、大内軍による南山城の占拠や是豊が備後国への撤退後は、義就が実力で山城を支配することになった。そのため、義就は守護でないにもかかわらず、山城国を実質上占領下に置いた。
文明3年6月、大内軍と畠山軍が合流して摂津・和泉に侵入したが、敵の反撃で失敗、以後畿内で大きな戦闘はほとんど行われず、文明4年10月に木津から出陣した東軍は大内軍の反撃で退散、文明7年4月に大内軍が木津へ攻撃して失敗したことが挙げられる程度であった。文明8年に政長は家臣の遊佐長直を河内国に下向させて若江城に赴任させたが、義就は翌文明9年9月に河内へ向かい、9月から10月にかけて若江城を始めとする河内の諸城を陥落させ長直を追放、河内を制圧した(若江城の戦い)。大内軍も呼応して木津を落としたが、大内政弘は幕府と和睦して11月に帰国したため、木津と摂津は東軍の手に戻された。
以後、南山城は政長をはじめとする幕府が領有したが、河内は守護ではない義就が占拠した状態が続いていくことになる[184]。
大和
大和国も畠山持国の影響力が強かったため、大和国人もお家騒動で互いに敵対していった。義就に就いた国人は越智家栄・古市胤栄で、政長には筒井順永・成身院光宣・十市遠清・箸尾為国らが味方した。光宣は乱勃発直後から政長に仕え、御霊合戦後に政長を勝元の屋敷へ手引きして、文明元年に亡くなるまで東軍に属していた。古市胤栄は義就に手助けすべく応仁元年6月に上洛したが、他の国人衆は表立って活動は行わなかった。
事態が動いたのは、文明2年に大内軍が摂津国から南山城へ南下した時で、山城国と大和国を結ぶ重要拠点の木津を大内軍が攻めてきたため、筒井順永は木津防衛に向かい大内軍の進出を阻止した。一方、越智家栄は義就の河内侵攻に参加、古市胤栄は下狛の大内軍陣地に合流して順永と交戦、文明3年になると十市遠清も東軍方として動き、1月に近江の東軍を助けて西軍の六角高頼軍を撃破、6月に順永・遠清・箸尾為国が畠山軍の河内侵攻を阻止するなど大和国人の殆どが乱に参戦するようになった。
文明4年10月に順永は下狛の大内軍に夜襲を仕掛けたが逆襲に遭い敗走、文明5年の和睦でも戦乱は止まず、文明6年になると大和国人衆の紛争が続出して戦乱は大和に拡大していった。文明7年4月に大内軍の木津攻撃を順永が撃退、5月に大和春日社頭で順永・遠清・為国ら東軍と家栄・胤栄ら西軍が衝突して東軍が勝利、古市胤栄は敗北の責任を取り隠居、弟の澄胤に家督を譲った。また、文明8年に筒井順永が亡くなり嫡男の順尊が後を継いだ。
文明9年に義就が河内国に侵攻・制圧すると大内軍も木津を攻撃し、木津を守る順尊ら政長派は木津を放棄、本拠地も失い没落したため、戦乱の末に大和国は越智家栄・古市澄胤ら義就派が勝利して大和は義就の手に入った。大和国は興福寺が支配していたが、大乱に伴う分裂で国人衆の台頭を抑えられず権威が下降した。興福寺別当の尋尊は日記で戦闘を詳細に書き記す一方で、混乱を収められない無力さを嘆いている。以後、没落した政長派は潜伏して遊撃兵として義就派への抵抗を続け、大和は義就派と政長派が抗争を繰り返していった[185]。
近江・美濃
近江国は京極氏と六角氏それぞれが治めていたが、六角氏も幕府の介入でお家騒動が悪化・分裂したため京極持清が東幕府の支援を得て近江の六角高頼を攻撃、高頼は美濃国の斎藤妙椿の後ろ盾で対抗していった。京極持清・勝秀父子は高頼の従兄の六角政堯と共に高頼の居城である近江観音寺城に度々攻め入り、高頼も応戦した。美濃国では守護の土岐成頼は西軍に加わるため上洛、守護代の斎藤利藤は幼いため叔父の斎藤妙椿が後見役として実質的に美濃を治めていたが、西美濃の国人長江氏・富島氏は京極氏と組んで妙椿に反乱を起こした。
美濃国の内乱は応仁2年までに妙椿に鎮圧されたが、近江国は決着が着かず一進一退、観音寺城が東軍に奪われては西軍に奪回されることが繰り返されていった。しかし、応仁2年に勝秀が死去、続いて文明2年に持清も亡くなり京極氏はお家騒動で2つに割れて弱体化(京極騒乱)、勝秀の弟政光と家臣の多賀清直・宗直父子は勝秀の遺児乙童子丸を擁立して西軍に寝返り、政光の弟政経と多賀高忠は乙童子丸の弟孫童子丸を擁立して争った。文明3年に政堯が高頼に討ち取られると戦況は西軍に傾き、文明3年と4年に妙椿が高頼に援軍を派遣して東軍を圧迫する。文明5年3月に宗全が亡くなると、妙椿は上洛して宗全に代わる西軍の指導者に成り上がった。
追い詰められた東軍は、信濃国の小笠原家長・木曾家豊に美濃の背後を突くよう要請、合わせて富島氏の再起を促し挟撃を図った。妙椿は直ちに反乱を押さえ伊勢国に出陣して東軍を牽制し、11月に出陣した小笠原家長らに東美濃を占拠されるという痛手を被ったが、文明7年1月に妙椿は信濃勢に勝利してそれ以上の侵略を阻止した。一方、京極氏は文明3年に孫童子丸が、4年に政光が没して政経が当主となったが、乙童子丸・清直父子が北近江、高頼が南近江を確保していたため東軍は劣勢となった。
そして、文明7年10月に近江国で決戦となり、妙椿の援軍と合流した高頼が勝利を収め、近江における戦乱は終結した。幕府も乙童子丸・清直父子と高頼及び成頼・妙椿らと文明10年(1478年)に和睦してそれぞれの支配を認めた。しかし、京極騒乱は収まらず政経は抵抗を続け、幕府も後に態度を翻して近江出兵を強行したり(長享・延徳の乱)、乙童子丸から家督を取り上げ政経に与えたりしていた。美濃国でも妙椿没後に実権を握った甥の妙純と利藤が争ったり(文明美濃の乱)、成頼の後継者を巡り内乱が発生したため(船田合戦)、近江と美濃の戦乱はなおも続いていくことになる[186][187]。
越前・尾張・遠江
越前・尾張・遠江3ヶ国は斯波氏領国であるが、畠山氏と同じくお家騒動と家臣団の内乱で戦争状態となっていた。義敏は乱直前に3ヶ国守護に復権したが、文正の政変で守護職を失い義廉が守護に戻った状態で乱が勃発、義敏は越前国に入り義廉派と交戦、義廉は京都で家臣の朝倉孝景・甲斐敏光らと共に東軍と戦っていた。特に朝倉孝景の活躍は目覚しく、御霊合戦では義就に加勢して政長軍を破り、一条大宮の戦いでも戦果を挙げて東軍から討伐対象に挙げられていた程であった。
しかし、朝倉孝景に対して東軍が応仁2年から内応工作を始めると、孝景は閏10月に義敏征伐を口実に越前国に下る一方で東軍と裏交渉を行い、文明3年5月21日に孝景の越前守護職任命を記した足利義政と細川勝元の書状が届き、孝景は公然と東軍に寝返った。これにより朝倉孝景は斯波義敏と同陣営に属することになるが、両者はかつて長禄合戦で敵対していたため、共同戦線を張れないことを察した足利義政は義敏に中立を命じたため、義敏の家臣が孝景に味方しても義敏本人は合戦に参加しなかった。また、応仁2年に斯波義廉は関東との秘密交渉の発覚で足利義政から管領と守護職を取り上げられ(西幕府では存続)、細川勝元と義敏の息子松王丸がそれぞれ管領と守護職に就任した。甲斐敏光は義廉の陣営に留まっていたが、孝景の寝返りを知ると越前へ下向した。
越前では朝倉孝景と甲斐敏光が中心となり合戦を繰り広げていったが、東幕府の支持を得た孝景が有利であり、文明4年8月に甲斐敏光の本拠地である府中(越前市)を落として甲斐敏光を加賀へ追い落とし、残党も翌文明5年8月の合戦で討ち取った。甲斐敏光は挽回を図り文明6年閏5月に富樫幸千代の援助で再度越前に攻め入るが、朝倉軍に連敗を続けた末に斎藤妙椿の斡旋で孝景と和睦、越前奪還を諦めた。
朝倉孝景の越前統一は間近に迫ったが、文明7年4月に孝景の急成長に危機感を抱いた義敏が大野郡土橋城に籠城して国人二宮氏と結託、孝景は義政から義敏の保護を命じられていたため迂闊に土橋城を攻撃出来ず、大野郡の占拠は長期間に亘った。7月に孝景は二宮氏を土橋城外に誘き出して討ち取り、11月に土橋城の攻撃を開始したため、義敏は観念して12月に降伏、孝景の処置で京都に送り返され越前は孝景に平定された。
甲斐敏光は文明7年2月に松王丸(元服して義良と改名)と共に上洛して足利義政から遠江守護代に命じられ下向、朝倉孝景に続いて甲斐敏光にも見捨てられた斯波義廉は11月に残された領国・尾張に向かったが、尾張でも内乱が発生、文明10年に幕府から反逆者と指名されたのを最後に、その消息を絶った。遠江では駿河守護の今川義忠が東軍の命令を受けて文明5年から遠江へ侵攻していたが、文明7年に甲斐敏光が東軍から守護代に任命されると大義名分を失い、文明8年に今川義忠が戦死すると今川氏は後継者に嫡男の龍王丸(後の今川氏親)と従弟の小鹿範満が擁立されお家騒動が発生、遠江侵攻は中断された。
斯波義良は応仁の乱終結後は越前の奪還を図り、文明11年(1479年)に甲斐敏光と二宮氏などを連れて越前に攻め入った。文明13年(1481年)に孝景は亡くなったが、後を継いだ息子氏景は斯波軍を越前から追い出し完全平定を果たした。義良も越前奪回を諦め文明15年(1483年)に尾張へ下向、甲斐敏光も朝倉氏景と和睦して越前は朝倉氏、遠江は甲斐氏、尾張は織田氏がそれぞれ守護代として受け持つことを取り決めた。
かくして、越前は朝倉氏が実質的に領有を果たし、斯波氏と甲斐氏は尾張・遠江を拠点としたが、やがて今川氏親と織田氏の勢いに押されていった[188]。
播磨・備前・美作
播磨・備前・美作はもともと赤松氏領だったが、山名宗全・山名教之・山名政清ら山名一族が嘉吉の乱で奪い取った経緯があり、再興を目指す赤松の遺臣達にとって山名氏との衝突は避けられなかった。長禄の変で赤松郎党が手柄を立てたことにより、赤松政則は細川勝元の支援で加賀半国守護に就任して復権の足掛かりを築き、赤松政則は家臣の浦上則宗と共に義政の警固や屋敷建造、土一揆鎮圧などに努め義政の側近として重用された。宗全からは敵視され文正の政変で失脚したが程無く復帰している。
宗全の政治的立場は嘉吉の乱から応仁の乱に至るまで、赤松氏から奪った3か国の領有を守る点で一貫しており、細川勝元との連携から離反・敵対もその観点からの判断であったが、勝元との連携の維持を望む嫡男・教豊を含めた一門・被官からも反発を受けるものであった。ところが、政則が3か国奪還のために勝元と連携し、実際に領国奪還に動き出したことで、それまで宗全の動きを諫めようとしていた山名氏一門・被官も3か国国内にあった自らの所領を守るために宗全の下で西軍として戦うことになった。山名一門で数少ない東軍参加者[注釈 16]の山名是豊(宗全の次男)は所領のほとんどが(旧赤松氏領国ではない)備後を拠点とし、勝元から山城守護に取り立てられた恩義があったために、兄・教豊らの方針転換に同調できなかったとみられている[79]。
播磨3か国では、宗全をはじめとする山名一族は軍勢を引き連れて上洛したため、好機と捉えた宇野政秀ら赤松氏家臣団は3ヶ国の奪還に動き出した。乱勃発直後の応仁元年5月に宇野政秀は播磨に下向して赤松氏遺臣の蜂起を促し、播磨を手に入れると備前・美作にも侵攻し備前も奪回したが、美作は守護代の抵抗が強く一度敗退、完全平定まで3年後の文明2年までかかった。この間、宇野政秀は文明元年に摂津で山名是豊と合流して池田城の救援に赴き大内軍を撃破、兵庫を奪還している。乱における活躍で赤松政則は東軍から3か国の守護に任じられ、赤松氏の再興に大きく前進した。
一方、早い段階で3か国を喪失した山名氏内部では文明3年に伯耆守護の山名豊之が重臣に殺害され、直後に山名氏の出雲遠征軍が京極氏に壊滅させられて豊之の実弟である因幡守護の山名豊氏が戦死して、留守を守っていた伯耆・因幡の重臣が東軍に寝返る事件を起こしている。こうした事態を受けて文明4年2月から山名・細川両氏の間で和睦交渉が始まるが、山名宗全は赤松政則が3か国を返還することを和睦の条件とし、政則が強く反対したことから、交渉は一旦挫折した。しかし、宗全・勝元の死後に交渉が再開され、文明6年4月になってようやく和睦が成立したが、3か国守護職は赤松政則に与えられたままであった[189]。
赤松政則は和睦に反対したが、文明9年の終戦後には3ヶ国守護と侍所頭人の地位を保証され赤松氏の再興を果たし、側近の浦上則宗も侍所所司代として赤松氏の重臣に成り上がった。しかし、山名氏は和睦で失った3か国の奪還を狙い、宗全の後を継いだ山名政豊は播磨を伺い、赤松政則も山名氏領国の不満分子を嗾けて反乱を起こさせたため、両者は終結後も3ヶ国を巡り争奪戦を繰り広げていった[190]。
備後・安芸・石見
備後は宗全の次男である山名是豊が治めていたが、宗全と不仲であった所を勝元に籠絡され、山名氏の大半が西軍に属したのと異なり、唯一東軍に与したとされてきた。しかし、伊藤大貴によって宗全との不仲説が否定された他、実際の守護は兄の教豊(宗全の家督復帰後は宗全)で、是豊はその守護代であったと指摘されている。是豊は兄や重臣達と共に宗全が勝元と敵対するのを諫めようとしたものの、赤松政則との争いが絡んで家中が西軍で纏まる中で結果的に東軍に属することになったのは前述の通りである[79]。
安芸国は大内氏と武田氏の対立の場となっていて、安芸国人の殆どを勢力下に収める大内氏に対し、武田氏は大内氏に危機感を抱く細川氏の支援で対抗した。文安4年に安芸国で最初の衝突が発生、これ以後は大内氏が度々安芸に侵攻しては、勝元が武田氏と反大内の国人を支援して侵略を阻止していった。伊予国で大内氏が河野氏を支援したことも、勝元が大内氏と対立する原因となった。
乱勃発で大内政弘は宗全の要請で領国周防から出陣、応仁元年7月20日に兵庫に上陸して8月23日に上洛、西軍と合流して東軍の脅威となった。対する武田信賢・国信兄弟と毛利豊元・吉川経基・小早川煕平ら反大内の安芸国人は東軍に加わり、是豊も上洛して東軍と合流した。上洛せず安芸・備後に留まった国人勢力も二分されそれぞれ争ったが、備後は宗全の影響力が健在だったため東軍が不利で、応仁2年11月に是豊が一時帰国しなければならない程であった。文明元年に是豊は再び上洛、その途上で摂津の大内軍を破り山崎に布陣して、翌文明2年西軍と交戦、備後が西軍の加勢でまたもや劣勢になったため12月に帰国した。一方の武田信賢らは京都に留まり西軍と戦った。
文明3年になると信賢と国信の弟で安芸の留守を守っていた武田元綱が西軍の工作で反乱を起こし、毛利豊元も大内氏に誘われて安芸に帰国すると西軍に寝返り、安芸・備後は西軍有利に傾いた。東軍は国人衆に忠誠を誓わせ寝返り防止に努め、山名是豊も備後で転戦して形勢を立て直そうとしたが、文明5年から文明7年の2年間西軍の小早川弘景ら安芸・備後国人衆が東軍方の小早川敬平が籠城する高山城を包囲したにもかかわらず救援に来なかったことから人望を失い、備後から追放された。ただし、文明6年に山名氏が細川氏と和睦して東軍に寝返ったことによって立場を失った是豊は西軍に寝返ったという指摘もある[79]。文明7年4月23日に安芸・備後の東西両軍は和睦を結び、中国地方の戦乱は終息に向かった。
文明8年4月には是豊が亡くなったという情報が京都に伝わっている[79]。戦後備後は山名是豊の甥(弟とも)に当たる山名政豊が領有することになり、残党は政豊に討伐された。安芸は武田氏をはじめ、国人が割拠する状態に置かれ、武田元綱は文明13年に信賢の後を継いだ武田国信と和睦、安芸の国人領主として兄から独立し大内氏と友好関係を結んだ。他の国人衆も大内氏との対立を解消し安芸は平穏になったが、戦乱を通して大内氏の影響力は増大、備後で山名政豊と国人が対立して支配が揺らいだため、大内氏と新たに台頭した尼子経久が国人衆を巻き込み衝突していった[191]。
なお、石見は美作の守護である山名政清が守護を兼ねていたが、乱が始まると、東軍は是豊を守護に任命して石見の平定を命じようとした。その頃、赤松政則の美作侵攻が開始され、美作で政清の留守を守っていた伯父で守護代の山名清宗(掃部頭)・義宗父子は激しく抵抗したものの、最終的には政則に敗走して石見に逃れることになった。ところが、ここで清宗父子は政清とたもとを分かって東軍側に寝返ってしまう。更に西軍についた甥の大内政弘に叛旗を翻した大内道頓が周防から石見に侵入、石見の山名氏被官や国人は清宗父子や大内道頓の元に集まることになり、同国の大半が東軍側に制圧されてしまうが、結果的に西軍側の山名政清・東軍側の山名是豊共に石見に入国できない事態となった。
大内政弘の生母が石見守護家の出身であったこともあり、最終的には山名政清が大内氏の力を借りて石見を回復させたものの、以降は山名一族でありながら大内氏の強い影響下に置かれることになった[192][193]。
戦乱の影響
応仁の乱は幕府権力が崩壊した戦国時代の始まりであるとの説が通説であったが、近年では幕府の権威は明応の政変頃まで一応保たれていたという見解もあり、明応の政変以降を戦国時代の始まりととらえる説もある。とはいえ、応仁の乱以降、身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない。
幕府・守護権力の変化
応仁の乱により、多賀高忠、浦上則宗、斎藤妙椿、尼子清定など、守護家に迫る勢力を有する国人が台頭した。また、東西両軍は味方を得るために、それまでの家格を無視した叙任を行った。西軍は一介の国人であった越智家栄を大和守護に任命し、東軍は西軍の有力武将だったが守護代でもなかった朝倉孝景を越前守護につけた。
文明7年、能登守護の畠山義統と越後守護の上杉房定が政長の分国越中を侵略した際には、足利義政が「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、守護が他国を侵略することも是認された[140]。このため室町幕府の家格秩序は崩壊し、身分秩序が流動化することになった。また長期にわたる京都での軍事活動により、守護の財政は逼迫した。権威と財政を失った守護は、国人や家臣団に対する支配力を著しく低下させた。国人や家臣は守護の影響を排除して自らの地盤を固め、領主化していった。
それまで在京が原則であった守護は自らの領国を守るため下国し、守護代に任せていた領国経営を自らの権威により行おうとした。これにより守護は幕府の統制を離れ、幕府は段銭などの徴収がままならなくなった。いくつかの守護は領主化を強化することで戦国大名へと成長することが出来たが、既に乱の最中に守護代や家臣に権力を奪われた者もおり、没落した守護も多かった。この従来の家格秩序を破る風潮は下克上と呼ばれ、戦国時代を象徴する言葉となる。
また、守護在京制の崩壊により、文明18年(1486年)には京都に残る守護が摂津・丹波を基盤とする細川氏一門のみとなった。守護の協力を得られなくなった幕府は、将軍近臣の奉公衆や奉行衆による運営を余儀なくされ、畿内政権としての道を歩み始めた。その一方で、細川勝元が幕府を西軍方に占拠されていた時に始めた、細川京兆家当主としての軍勢催促状などの軍事決裁行為が管領復帰後も継続され、勝元没後に管領となった畠山政長も義就との戦いのためにほとんど在京しなかったために、勝元の子政元が細川政国の後見を受けて同様の措置をもって幕府の軍事行動を指揮したため、細川京兆家が管領の本来有していた幕府の軍事的権限を行使するようになった[194]。やがて細川氏と幕府の利害が対立し、明応の政変とその後の京兆専制を招くことになる。
公家の没落
領主化を推進する守護や国人によって一円知行化が進められ、公家や寺社の荘園は横領された。さらに、幕府の権威低下により、遠国など幕府の権力が届かない地域の荘園・国衙領支配は絶望的になり、荘園制度の崩壊が加速した。
収入を断たれた公家は没落し、朝廷行事や官位昇進への興味も失った。甘露寺親長は日記に「高官無益なり」と書き記し、文明5年には顕官である近衛大将の希望者が現れないという事態が発生している。
前関白の一条教房のように京都を去る公家や[注釈 17]、町広光のように家を意図的に断絶させる公家まで現れた[195]。また、西軍について失脚した西川房任の子孫が細川高国に仕え、薬師寺国長の寄子に付けられるなど、生活が立ち行かなくなって公家身分を棄てる例もあった[196]。
朝廷の困窮
さらに、朝廷も収入が激減し、天皇の即位式や譲位、大喪の礼、皇儲(東宮)の元服式などの費用を捻出できず、それら重要な儀式を行うことが困難となった[197]。
幕府も朝廷を経済支援することが厳しくなり、後土御門天皇は譲位を望んだにもかからず、その崩御まで譲位できなかったばかりか[197]、葬儀費用さえ捻出できず、遺体を御所に43日もの間留め置かれた[198]。結局、文明2年の後花園天皇の崩御から、天正14年(1586年)に正親町天皇が後陽成天皇に譲位するまでの間、天皇が譲位できない時代がおよそ110年続く形となった[197]。
また、後柏原天皇も皇儲時代、幕府が元服費用を負担せず、公家らが捻出した費用で何とか元服式を行い、その終了後に日野富子が8千疋を進上し、幕府の負担として代えている[197]。また、その元服は通常の皇儲の元服よりも省略されたものであった[197]。加冠役は足利義政が務めたが、以後の皇儲の元服において、室町殿が元服諸役を務めることはなくなった[199]。
朝廷は幕府からの経済支援が乏しくなったことで、財政難に喘ぐこととなった。そのため、戦国期には各地の諸勢力から支援を受けたほか、それらに対して献金による売官も行われるようになった。他方、これは京都文化が地方に伝播する一因ともなった。
京都の被害
文明2年頃には戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失し、罹災を免れたのは土御門内裏などわずかであった。このため、類聚国史(一部)など京都にあった歴史的資料の多くが焼失・散逸し、これ以前の歴史研究に影響を及ぼした。
京都七口関は両軍の争奪戦となり、物資の流入も停滞した。さらに足軽の放火・略奪が追い打ちをかけ、京都の大半の人々は大いに困窮した。また文明5年には疫病が流行し、両軍総大将の宗全や勝元も命を落とした[200]。応仁の乱を描いた軍記物『応仁記』に収録された飯尾常房の歌「汝や知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」は、戦乱で荒廃した京都の有様を嘆いた作品として知られている[201]。
しかし、義政はこれを顧みず日夜酒宴に明け暮れ(ただし、これは将軍御所に退避した天皇に対する饗応の意味もある[151])、小河邸や東山山荘を造営した。また富子は困窮した東西軍の守護に金銭を貸し付けるほか、米の投機を行って大いに利益を上げた[注釈 18]。
寺社、公家、武家屋敷があった上京が焼け、商工業者が居住していた下京が焼け残ったことは、その後の京都の商業勃興をもたらした[203]。
京都の復興
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は、京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。
応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されたが、都市の荒廃による環境悪化によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したこと、加えて在京していた守護大名やその家臣達(都市消費者として一定の役割を果たしていた)が領国の政情不安のために帰国したまま帰ってこなかったこともあり、京都の再建は順調とは言えなかった。また、こうした災害を理由とした改元(長享・延徳・明応)が相次いだ。
宝徳3年(1451年)、義政は義教の死後中断していた勘合貿易を復活させていた。勘合貿易の復活や側近の守護大名及び幕府官僚の財政再建によって、応仁の乱前の幕府財政は比較的安定してはいた。だが、義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった。
一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられる[注釈 19]。また、当時町衆における法華宗の受容も、社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられる。
それでも明応7年(1498年)頃より京都の住民に対する地子銭徴収が次第に増加していったこと、永正5年(1508年)以後の酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事からこの時期に京都の人口回復が軌道に乗り出したと考えられ、明応9年の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられている。
戦術の変化

応仁の乱の戦いで特徴的とされるものは、正規の武士身分ではない足軽の活躍である。それまでは騎乗の権利を有する正規の武士が、少数の従卒を率いる小グループ同士の戦いであり、戦いの進行も名乗りを上げた後、騎射、馬上で薙刀などを使う打物戦、最後に下馬しての徒戦という順に進んでいた。
応仁の乱は大規模な戦闘が続いたことで兵力不足に悩んだ両軍は、兵站や土木作業に従事する足軽を戦力に加えた。足軽は技量が低い者も多く、それまではタブーであった馬への攻撃も行われた。主力武器も個人戦向けの薙刀から、集団戦に適した槍へと移行した。
東軍の足軽大将である骨皮道賢や西軍の御厨子某が、後方攪乱として足軽によるゲリラ戦を行って名を上げるなど、散兵も活用された。
足軽は盗賊などの無法者を多く含んでおり、高い自立性を持っていた。彼らは異形の装いをし、市街の放火や略奪を頻繁に行った。このため一条兼良は『樵談治要』において「足軽といふ者長く停止せらるべき事」と項目立てて、「洛中洛外の諸社諸寺五山十刹公家門跡の滅亡は彼らが所行なり」と非難している。一方で東寺などの権門寺社も自衛のために足軽を雇用することもあった[204]。
後世の評価と研究
拡大の要因
この戦乱は延べ数十万の兵士が京都に集結し、およそ11年にも渡って戦闘が続いた。だが、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった[注釈 20]。
乱のきっかけは、畠山義就を山名宗全が支援したことであるが、何故ここまで乱の規模が拡大し、長期間継続したのかという問題には様々な解釈が建てられている。
多くの大名には、陣営を積極的に選ぶ理由はほとんど無かった[206]。日野富子は足利義視が西軍に逃亡した後も、土御門内裏が炎上しないように西軍の大内政弘と連絡を取り合っているなど、将軍継嗣の問題だけでは説明がつかないという見方もある[207]。
永原慶二は、幕政の中心人物である細川勝元と山名宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなったとしており、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出されたとしている[208]。
伊藤大貴は、嘉吉の乱によって赤松氏から山名氏に移った播磨・美作・備前の3か国を巡って、返還を求める赤松政則とそれを拒む山名宗全の間の深刻な対立の存在を指摘し、宗全は政争に関わることで自己への支持を広げようとし、政則は細川勝元と連携してそれを阻止しようとし、それが宗全と勝元の対立という構図を生んだとする(宗全と勝元の和睦交渉が行われると、政則はたびたびこれを妨害している)[79]。
当時の人々も理解できなかったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。
軍記物による描写
応仁の乱が描かれた代表的な軍記物としては、『応仁記』『後太平記』『瓦林正頼記』などがある。特に『応仁記』は、細かい描写がなされて乱の研究に欠かせない史料であるが、儒教的色彩が濃く、幾つかの誤りが指摘されるようになった。実子・足利義尚の将軍職擁立を切望する日野富子が山名宗全に依頼し、足利義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍したという説は誤りであるとされ、富子が乱の元凶であったとする説を現在にまで流布させる要因となった。
内藤湖南による評価
大正10年(1921年)、東洋史学者の内藤湖南は、史学地理学同攷会での講演『応仁の乱に就て』において、応仁の乱前後を「最も肝腎な時代」であると指摘した上で、「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山です」と発言し[209]、古代史学者との間に論争を巻き起こした。なお、戦乱によって史料が失われたことで、応仁の乱以前の歴史には不明な点も多い。