上官婉児
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麟徳元年(664年)12月の上官儀・上官庭芝の誅殺により、一族の大半を処刑され、彼女も婢の身分に落とされているが、頭の良さと詩文の巧みさにより、則天武后に愛され、中宗の時期、昭容(正二品)の女官のポストを与えられた。中宗は「修文館」を建て、公卿の文学者20名を選び、宴や詩会を開催し、金爵を賜っている。婉児は先生格で、鬢の男子を導いている。群臣たちは競作し、添削を請い、婉児の影響で宮廷内では詩が流行したという[1]。
だが、その反面、則天武后の甥の武三思とも関係を持ち、中宗と韋皇后に彼のことを推薦し、取り立てるように計らってもいる。韋皇后に則天武后の故事を吹き込み、皇帝にかわって権力の座につくことを薦めた。そのため、韋皇后のクーデターが失敗に終わった際に、李隆基(後の玄宗)の目の前に引き出され、誅殺された[2]。
没後の開元年間に、『詔張説題篇』20巻が出版されている。代表作に『綵書怨』(さいしょえん)など。
