上田ナライト
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入信と教祖からの寵愛
1863年(文久3年)、大和国山辺郡園原村の上田嘉治郎の長女として生まれる。1876年(明治9年)、14歳で入信した際、教祖・中山みきから「待ってた、待ってた。どこをどう回って来たのや」と歓迎を受け、そのまま屋敷(教団本部)へ住み込む「引き出し」となった[2]。教祖はナライトを「わしの子や」と呼び、手ずから髪を結い、食事を分け与えるなど、実の孫以上に慈しんだと伝えられている[3]。
本席後継指名と沈黙
1907年(明治40年)6月9日、飯降伊蔵は死の直前の「おさしづ」において、「あとの道は、これへ、ナライトへ運んでやる」と述べ、彼女を次代の啓示者(本席)に指定した[4]。しかし、実弟の上田曹治郎や初代真柱・中山眞之亮ら教団幹部は、政府の弾圧回避と組織安定を優先し、真柱を中心とする近代的な組織運営へ移行。ナライトは一切の異議を唱えず沈黙を守ることで、教団の分裂危機を未然に防いだ[5]。