上田ナライト

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生誕 1863年文久3年)
大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)
死没 1935年昭和10年)7月22日
職業 天理教本部員
影響を受けたもの 中山みき
うえだ ならいと
上田 ナライト
生誕 1863年文久3年)
大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)
死没 1935年昭和10年)7月22日
職業 天理教本部員
影響を受けたもの 中山みき
子供 上田嘉成(孫)
上田嘉治郎
家族 上田曹治郎(弟)
補足
幻の二代目本席
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上田 ナライト(うえだ ならいと、1863年 - 1935年7月22日)は、天理教の宗教家。

教祖・中山みきから直接薫陶を受けた「引き出し(住み込み門弟)」の一人。初代本席飯降伊蔵から次代本席としての指名を受けながらも、教団の制度化過程でその座に就くことがなかったため、教団史上で「幻の二代目本席」と称される[1]

入信と教祖からの寵愛

1863年(文久3年)、大和国山辺郡園原村の上田嘉治郎の長女として生まれる。1876年(明治9年)、14歳で入信した際、教祖・中山みきから「待ってた、待ってた。どこをどう回って来たのや」と歓迎を受け、そのまま屋敷(教団本部)へ住み込む「引き出し」となった[2]。教祖はナライトを「わしの子や」と呼び、手ずから髪を結い、食事を分け与えるなど、実の孫以上に慈しんだと伝えられている[3]

本席後継指名と沈黙

1907年(明治40年)6月9日、飯降伊蔵は死の直前の「おさしづ」において、「あとの道は、これへ、ナライトへ運んでやる」と述べ、彼女を次代の啓示者(本席)に指定した[4]。しかし、実弟の上田曹治郎や初代真柱中山眞之亮ら教団幹部は、政府の弾圧回避と組織安定を優先し、真柱を中心とする近代的な組織運営へ移行。ナライトは一切の異議を唱えず沈黙を守ることで、教団の分裂危機を未然に防いだ[5]

園原講の活動と貢献

ナライトは故郷・園原の信者組織「園原講」の精神的支柱として、教団本部の建設(ひのきしん)において重要な役割を果たした[6]

  • 人足の理の指揮:1888年(明治21年)の教会本部設立や1892年(明治25年)の北門建設の際、園原講の若者たちは資材運搬等の重労働を担った。ナライトは彼らのために手料理を振る舞い、教祖直伝の「真心の尽くし方」を説いて労った[3]
  • 史料の保存:園原の上田家は、教祖や本席の言葉を記した日記や書簡を厳重に保管した。これらは後に「上田家文書」として整理され、教団の一次史料(『古老聞書』等)の基盤となった[7]

保持した遺品(ご遺物)

参考文献

脚注

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