下保谷村
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歴史
→「保谷市」も参照
村の起源は明らかでないが、初期の村域は白子川沿岸の現在の下保谷・北町地域だったと考えられ、村の惣鎮守の三十番神社(現天神社)やその別当寺の福泉寺もこの地域にある。
旧下保谷村の地域では17基の板碑が発見されているが、最古のものは1461年(寛正2年)のものである。また、1559年(永禄2年)に編纂された「小田原衆所領役帳(後北条役帳)」には「小榑保屋 九十八貫八百六拾文」の記述が見える。(小榑は下保谷村隣村の小榑村のこと、保屋は保谷のことである。)これらの事実より、15~16世紀には下保谷村の地域には集落が存在したことが窺える。
なお、下保谷村と小榑村は同じ白子川沿いにあること、日蓮宗を信仰しており下保谷村にも妙福寺(小榑村)の檀家が多いことなどより小榑村の住人により開発された可能性が指摘されている。[1]
その後、17世紀前半までに現在の東町の地域が、享保期以降に現在のひばりが丘の地域が開墾され、明治期まで続く村の領域が概ね確定した。