下川常雄

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下川 常雄(しもかわ つねお、(1910年(明治43年)1月5日 - 2003年(平成15年)7月22日)は、日本の実業家。住友ゴム工業二代目社長・会長、兵庫県教育委員長。

福岡県嘉穂郡二瀬村(現:飯塚市)片島出身[1][2]。地主・村長の下川久次郎の三男。1928年(昭和3年)に第五高等学校に入学、柔道部に属した。東京帝国大学商業学科を経て、1934年(昭和9年)、住友電気工業に入社。高校の1年先輩の鍋島綱利宅に下宿、その後も家族ぐるみでの交流を続けた[3]

日中戦争勃発後は内地の歩兵第24連隊留守隊に応召し、1937年(昭和12年)12月、歩兵少尉に任官[4]。翌1938年夏、補充要員として上海に上陸し、歩兵第124連隊の連隊旗手となり、杭州、ついで南支方面に転じ、バイアス湾上陸作戦に参加した[5]太平洋戦争開戦の10日前、歩兵第56連隊に主計少尉として応召した鍋島と再会し、遺言状を交換している[6]。開戦はベトナム·カムラン湾の輸送船上で迎えた。陸軍中尉に昇進後、同連隊第3機関銃中隊長となり、ボルネオ島ミンダナオ島フィジー諸島攻略に参加。1942年(昭和17年)9月のガダルカナル島上陸前にダバオの待機要員となり、10月に内地に帰還後、正式に召集解除となった[7]。住友電工に復職したが、同年末より毎晩川口支隊将兵が血まみれの幽霊になって泥沼を渡っている悪夢にうなされるようになり、正月休みに福岡連隊本部に問い合わせたところ、川口支隊の大半が餓死したことを知ったという[7]。翌年歩兵第114連隊に応召し、ビルマの戦いに参加。ミイトキーナの戦いにて敵弾が唇から舌、首筋を貫通する重傷を負う[8][9]。これにより、戦後も言語障害の克服に苦労した[9]

戦後ふたたび住友電工に復職し、伊丹製作所労務課長、大阪製作所労務課長を経て1951年(昭和26年)同次長。1953年(昭和28年)兼総務部次長、1956年(昭和31年)1月、総務部長[1]1958年(昭和33年)、事務管理専門視察団員として渡米し、同年11月取締役・東京支社長。1961年(昭和36年)常務。1963年(昭和38年)より日本ダンロップ護謨の財政再建を任され、同社を住友グループに編入した住友ゴム工業の専務を兼職[10][11]1964年11月、住友電工常務を退任。住友ゴム工業副社長を経て1969年より代表取締役社長に就任。1974年(昭和49年)8月、同社会長。相談役、兵庫県教育委員長。

2003年(平成15年)7月22日午前9時20分、脳梗塞のため神戸市東灘区の病院で死去。享年93。

人物

脚注

参考文献

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