下総飯田藩
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関連地図(千葉県)[注釈 1]
藩主の青山成重(七右衛門、図書助)は、三河譜代の青山家の一族である。元亀2年(1571年)、三河国で戦死した青山忠重に継嗣がなかったため、徳川家康の命によって忠重の親族にあたる成重[注釈 2]が家を継いだ[4]。成重は徳川家康に近習として仕え[1]、天正12年(1584年)からは徳川秀忠の傅役を務めた[1]。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入国すると、青山成重は下総国香取郡で3000石を領した[1][5]。その後、慶長6年(1601年)に下総国内で2000石を加増された[1][5]。
慶長13年(1608年)12月25日、青山成重は老中に任じられる[注釈 3]とともに[1]、下総国内で5000石を加増され、知行高1万石で大名に列した[1][5]。これにより飯田藩が立藩した。
慶長18年(1613年)、大久保長安事件が発生する。成重は大久保長安の三男(青山成国)を養子として迎えていたことから、同年8月に加恩の地7000石を没収の上、下総国香取郡の知行地で「屏居」させられた[1][5]。これにより、飯田藩は廃藩となった。なお、青山成国は同年8月9日に死を賜った[1]。
元和元年(1615年)9月7日、青山成重は赦免を受けないまま、知行地の飯田で没した[1][5]。知行地は一旦収公されるが、実子の青山成次が父の旧領中1000石を改めて与えられた[1]。成次の子・成政は御先鉄炮頭を務め1200石に加増[1]、また子孫の成存が勘定奉行を務めている。