譜第
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概要
武家社会
鎌倉時代
官職・地位の世襲化が進むと、官職や地位、それに伴う家学・武芸などの技能が1つの家系の間で継承されるようになる。特に武家の主従間では、代々同一の棟梁の家に仕える武士を「譜代重大の家」と呼んでこれを重んじた。『平家物語』においては「譜代弓箭の兵略を継ぐ」という用例が現れ、『吾妻鏡』には大庭景親を「源家譜代御家人」と呼称している(治承4年9月3日(1180年9月23日)条)。鎌倉時代後期には、執権北条氏が幕政の権限を握って北条氏譜代の家臣を「御内人」と呼んで、一般の御家人である「外様」と区別した。
室町時代
室町幕府でも足利将軍家に服属する守護大名の格式を「譜代」と「外様」に分けて明示し、それが有職故実(武家故実)として個々の武家でも用いられた。
また、守護大名や国人領主の家中においても、「譜代」と「外様」の家臣の違いがあり、外様の家臣は主家の興亡において去就の自由があったのに対し、譜代の家臣は主家と運命を共にする義務があったとされる。戦国時代の藤堂高虎は「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と述べているが、それが許されたのは外様の家臣であればこそであった(むろん、そういう規範から外れた行動を取った者は、当然ながら存在する。藤堂高虎自身も主君・豊臣秀保死去の際に、それに殉じる形で一旦出家している)。
江戸時代
江戸幕府においては、関ヶ原の戦い以前から徳川氏(松平氏)に仕えて大名に列した者を譜代大名、それ以後に徳川氏に臣従した大名(外様大名)と区別した。譜代大名はほとんどが10万石以下であり、5万石以下の大名も多かったが、幕閣に就けるのは一部例外を除いては譜代大名に限られていたために老中などの要職について幕府内において大きな権力を振るう者もあった。ただし、譜代大名及び旗本の間でも徳川氏に仕官する時期によって三河衆・近国衆・関東衆と分ける慣例もあり、複雑な構図になっていた。
また、諸藩においても家臣の出仕時期による譜代・外様の別、譜代の区分が存在した(加賀藩においては譜代に相当する家臣は「本座者」と呼ばれ、筑前藩においては最古参の家臣は「大譜代」と呼ばれた)。農村においても本百姓に隷属する譜代下人(譜代奉公人)と呼ばれる人々たちが存在していた。