与謝野礼厳
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文政6年(1823年)、丹後国与謝郡温江村(現在の京都府与謝郡与謝野町温江)にて、細見儀右衛門の次男として生まれる[2][3]。幼少時に出家し、加悦村の浄福寺で修行し、京都の西本願寺で得度する[2]。生まれの地にちなみ、与謝野姓を名乗るようになる[2]。
願成寺の住職に34歳の時につく。その後、35歳で再婚。相手は京米穀商の娘山崎ハツエ(19歳)で、寛(後の与謝野鉄幹)が生まれる[4]。 礼厳は布教をしながら、さまざまな事業に手を出す。小学校建設、医療医薬の整備、府立療病院(現在の京都府立医科大学附属病院)の創設、温泉や鉱山の試掘、茶の輸出、ラムネの製造、養蚕等、結局負債を抱えることとなる。家財を売り払うこととなり、鹿児島の西本願寺出張所へ開教師として行く。1880年(明治13年)から1884年(明治17年)までいたが、ここでも養蚕や葡萄栽培の指導に失敗し、病のため帰京する[4]。
幕末には勤皇討幕運動に貢献する[2]。明治維新後は、療病院や鉱泉場を開設し、および小学校開設の必要性を説いた[1][2]。
また歌人としては、1万7100余首もの歌稿を残しており、のちに斎藤茂吉は「明治初期に出た特色のある歌人の一人」として高く評価している[2]。
