与謝野礼厳

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死没 (1898-08-17) 1898年8月17日(74歳没)
職業 僧侶歌人
よさの れいごん

与謝野 礼厳
生誕 1823年10月16日
丹後国与謝郡温江村(現在の京都府与謝郡与謝野町温江
死没 (1898-08-17) 1898年8月17日(74歳没)
職業 僧侶歌人
子供 与謝野鉄幹
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与謝野 礼厳(よさの れいごん、文政6年9月13日1823年10月16日) - 明治31年(1898年8月17日[1])は、日本僧侶歌人与謝野鉄幹の父。

文政6年(1823年)、丹後国与謝郡温江村(現在の京都府与謝郡与謝野町温江)にて、細見儀右衛門の次男として生まれる[2][3]。幼少時に出家し、加悦村の浄福寺で修行し、京都西本願寺得度する[2]。生まれの地にちなみ、与謝野姓を名乗るようになる[2]

願成寺の住職に34歳の時につく。その後、35歳で再婚。相手は京米穀商の娘山崎ハツエ(19歳)で、寛(後の与謝野鉄幹)が生まれる[4]。 礼厳は布教をしながら、さまざまな事業に手を出す。小学校建設、医療医薬の整備、府立療病院(現在の京都府立医科大学附属病院)の創設、温泉や鉱山の試掘、茶の輸出、ラムネの製造、養蚕等、結局負債を抱えることとなる。家財を売り払うこととなり、鹿児島の西本願寺出張所へ開教師として行く。1880年(明治13年)から1884年(明治17年)までいたが、ここでも養蚕や葡萄栽培の指導に失敗し、病のため帰京する[4]

幕末には勤皇討幕運動に貢献する[2]明治維新後は、療病院や鉱泉場を開設し、および小学校開設の必要性を説いた[1][2]

また歌人としては、1万7100余首もの歌稿を残しており、のちに斎藤茂吉は「明治初期に出た特色のある歌人の一人」として高く評価している[2]

1898年(明治31年)に死去、享年76(満74歳)。1917年(大正6年)、従五位を追贈された[5]

郷里における顕彰活動

与謝野礼厳追念碑

出身地である与謝野町温江大虫神社の鳥居近くに追念碑がある[6]。1931年(昭和6年)、息子の与謝野鉄幹は追念碑の除幕式に出席するために温江を訪れている[7]

1993年(平成5年)10月、礼厳法師歌集復刻版が完成した[8]

1994年(平成6年)8月、礼厳を偲ぶ会が開催された[8]

家族・親族

脚注

外部リンク

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