赤松智城
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- 出生から修学期
1886年、山口県周南市で赤松照幢の長男として、浄土真宗の徳応寺に生まれた。第五高等学校に進学し[1]、3年の時には総代であった。
1940年、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。同大学哲学科は前年の1939年に開設されたばかりであり、宗教学科では松本文三郎に師事。1910年7月に首席で卒業。同大学大学院に進み、一方で仏教大学(現・龍谷大学)で教鞭も執った。大学院には羽渓了諦、宇野円空らが在籍しており、学生間ならびに教授陣との交流も活発であり、東京帝国大学と京都帝国大学の有志が集まって[2]1915年に「宗教研究会」(現・日本宗教学会)を設立[3][4]。翌1916年より基幹雑誌である『宗教研究』を刊行した。1920年から1923年まで、欧州留学。
- 宗教学研究者として(戦前)
1923年6月に帰国し、1924年4月より龍谷大学で宗教学を講じた。1925年には高野山大学教授、1926年には臨済宗大学教授。1927年8月、京城帝国大学教授となった。しかし1941年3月に依願免官し、故郷の山口へ戻った。1941年3月、京都帝国大学文学部講師嘱託を委託された。1942年には、1年間講師として教鞭を執った。1943年1月より、九州帝国大学文学部講師として宗教学を担当。1943年より龍谷大学教授(1947年に依願退職)。
- 太平洋戦争後
1949年より山口大学文理学部で講師を務め、1950年10月に教授に就任し、社会学を担当[5]。しかし翌1950年12月から二度休職し、1952年に辞職。
1960年に死去した。