中原綾子
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旧柳河藩士であった曽我祐保の次女として、父の任地・長崎に生まれる。父の転任に従って大阪・神戸・朝鮮へと移るが、主として東京に在住する。1915年(大正4年)に東洋高等女学校を卒業後、作歌を始めていたが1918年(大正7年)から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を『明星』に発表するようになる[1]。同じく『明星』に参加していた高村光太郎と親交があり、統合失調症を病んだ妻・智恵子の自宅療養と介護に忙殺され疲弊した光太郎は、度々中原へ手紙を送っている[2] 。
1929年(昭和4年)6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌『相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲を発表する。1931年(昭和6年)8月には歌誌『いずかし』を主宰して発行した。1947年(昭和22年)3月、第3期『明星』に参加し顧問となる。1950年(昭和25年)2月には第73期『スバル』を創刊主宰。同じ年の3月にはロマンス社から『定本与謝野晶子全集』の刊行のため湯淺光雄とともに編輯し始めるが、ロマンス社の経営難と紛糾のため第1巻で中絶している[1]。
