中国=タジキスタン国境

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タジキスタンの地図。中国は東方にある。

中国=タジキスタン国境(ちゅうごく=タジキスタンこっきょう)は、中華人民共和国タジキスタン国境である。キルギスとの三国国境から、パミール高原をほぼ南北に走り、アフガニスタンとの三国国境まで続き、全長は477キロメートルある[1]。タジキスタン側はゴルノ・バダフシャン自治州ムルガブ、中国側は新疆ウイグル自治区クズルス・キルギス自治州アクト県カシュガル地区タシュクルガン・タジク自治県が接している。

中国=タジキスタン国境に設けられたフェンス
中国(黄)とタジキスタン(緑)の国境の変化

この国境の起源は、19世紀半ばにロシア帝国中央アジアに進出し、ザイサン湖周辺の支配権を確立したことに始まる。1860年の北京条約で定められたロシア帝国と清国との国境は、現在の中国・カザフスタン・キルギスタジキスタンの国境とほとんど変わらない[2][3]。この条約に基づき、タルバガタイ条約英語版(1864年)とウリアスハイ条約(1870年)によって国境線の詳細が決定され、ザイサン湖はロシア側に残された[4][5][3]回民蜂起によって、清国のエルティシ盆地の駐留地は崩壊した。反乱が鎮圧され、左宗棠が新疆を再征服した後、イリ条約とその後の議定書によって、イリ川流域のロシア帝国と清国の国境は、ロシア側に有利にに変更された[3]。1915年には、イリ川流域とジュンガル・アラタウ山脈の国境をより正確に定める協定が結ばれた[3]。国境の最南端(現在の中国とタジキスタンの国境の南半分)は、中央アジアの覇権をめぐるイギリスとロシアの対立(グレートゲーム)が続いていたこともあって、未画定だった。最終的には、アフガニスタンをロシアとイギリス領インド緩衝国として独立させることで合意し、1895年にアフガニスタンのワハーン回廊が設定された[3]。中国はこの協定に参加していなかったため、中露の境界の最南端は未確定だった[3][6]。1991年に独立したタジキスタンは、中ソ国境の一部を継承した。その国境線は、アムダリヤ川ヤルカンド川の分水嶺に沿って、マルカンスに達するまで続いている[3]:10

タジキスタンが1999年の協定と2002年の補足協定に2011年に批准したことで、パミール高原の200平方キロメートルと1,122平方キロメートルの土地[7]がタジキスタンから中華人民共和国に割譲され、130年に及ぶ紛争に終止符を打った。この条約により、中国はタジキスタンが支配する領土28,000平方キロメートルの領有権を放棄した[8][9][7]。この国境条約に対し、タジキスタン人の間では賛成・反対で大きく意見が分かれた[10]

2020年7月、タジキスタンは中国にもっと土地を割譲するべきだとするCho Yao Luの記事が中国国内のメディアに掲載され、タジキスタンとロシアから激しい反発を受けた[11][12][13][14]

地理

国境の北端は、キルギスとの三国国境である。マルカンス川(瑪爾坎蘇河)の源流付近であり、近くには中国の最西端地点がある。

国境の南端は、アフガニスタンとの三国国境で、ポバロ・シュヴェイコフスコゴ峰[15][16]中国語: 波万洛什维科夫斯基峰[17])という。アフガニスタン=タジキスタン国境の東端、アフガニスタン=中国国境の北端であり、アフガニスタンの最東端である。

国境通過点

カルマ峠英語版(闊勒買山口、標高4,362.7メートル)にあるカラス口岸(卡拉蘇口岸)が、現在の中国=タジキスタン国境における唯一の通過点である[18]。歴史的には、その南にあるネザタシュ峠英語版ベイク峠英語版も使用されていた。

地図

20世紀半ばから後半にかけての中国=ソ連(タジク・ソビエト社会主義共和国)の国境地帯の地図と、2011年以前の中国=タジキスタン国境を含む歴史地図。

脚注

出典

関連項目

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