中島和也
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実父の中島巌に[1]2歳の時からゴルフの手ほどきを受け、早くから頭角を表すと、厳しい練習の甲斐あってジュニア、アマチュア時代は数々のタイトルを獲得し日本代表としても活躍[2]。
1986年にはハワイパールオープンのアマチュア部門を74、70、67、5アンダーの好成績で優勝し[3]、兄の常幸が優勝した美津濃オープンではベストアマを獲得[4]。
その後は1987年秋の[5]プロテストにトップ合格を果たし[1]、1988年にはハワイパールオープンで文山義夫・中尾豊健と並んでの7位タイ[6]に入ったが、ハワイアンオープンは予選落ちに終わる[5]。帰国後は国内デビュー戦となる開幕第1戦の第一不動産カップ[1]で初日スタートの10番こそボギーであったが、12、13番でバーディーを奪ってからは波に乗り、後半のアウトも貯金を増やす[5]。通算5アンダー66でプロ10年目の安達典夫に1打差付け、デビュー戦の初日を首位でスタートする[5]。2日目は一時8アンダーまでスコアを伸ばしたものの後半に乱れ、佐野修一・堀芳浩・金子柱憲・小林富士夫・芹澤信雄・長谷川勝治と共に首位から1打差の3位グループに後退[7]。3日目には65をマークして1打差2位[8]に着け、最終日には9番でダブルボギーを叩いて自滅した前日首位の友利勝良を逆転[9]。通算8アンダー276で1981年の倉本昌弘以来3人目となるデビュー戦優勝を飾り、第1回大会の覇者ともなった[9]。
続く2戦目のミズノプロ新人では初日を高崎龍雄・蔵岡伸二と共に2オーバーの10位タイ[10]でスタートし、最終日には急性咽頭炎で棄権[11]。
デビュー戦勝利の直後からスランプに落ち、「プロのスウィングではない」と酷評されるようになると、ティグラウンド脇のギャラリーにライナーで打ち込んだことも再三で、「和也を見るのは命がけ」と揶揄されたこともあった[1]。体の故障もあったが、スウィングイップスが不調の主な原因で、最後にはテークバックさえ上がらなくなった[1]。
1991年から1995年にかけてはアメリカミニツアーを転戦しながら、ゴルフ倶楽部運営等を学ぶ[2]。その内に巌が始めたゴルフ場造成に関わるようになり[1]、現在は東松苑ゴルフ倶楽部、五浦庭園カントリークラブなどでの経営者職、レッスンも行う傍ら、2010年に就任した日本ゴルフツアー機構ディレクター[1]やプロトーナメント競技委員としても活躍[2]。
主な優勝
- 1988年 - 第一不動産カップ