中島秋挙
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安永2年(1773年)、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた[2]。刈谷藩藩士であり町奉行を務めていた中島佐守の長男である[2]。幼名は大之丞であり、後に衛輔に改めている[2]。享和2年(1802年)、30歳の時に官職から退き、弟の中島治右衛門に家督を譲った[2]。
隠居後の秋挙は剃髪して俳諧の道に入ると、岡崎の鶴田卓池の紹介で名古屋の井上士朗の門を叩いた[2]。肥料商で高弟となった鶴見東雅などから援助を受け、碧海郡小垣江村の曙庵に暮らしたが、各地を旅することが多かった[2]。秋挙は妻を娶らず、北は奥州、西は須磨や明石から中国地方などを旅した[2]。
文化8年(1811年)3月には広瀬惟然の句集『惟然坊句集』を発刊した[3]。文化9年(1812年)4月から5月には師の井上士郎の看病を行い、『病床日記』や『朱樹翁終焉記』を書いている[3]。文政9年(1826年)7月25日、悪性腫瘍が原因で死去[2]。享年54。墓所は刈谷市の十念寺[4]。