中島良史 (音楽家)

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生誕 (1944-02-05) 1944年2月5日(82歳)
日本の旗 日本東京都
ジャンル クラシック音楽全般
職業 作曲・編曲家、指揮者、音楽プロデューサー、元国立音楽大学准教授
なかじま よしふみ
中島 良史
中島 良史(2025年)
基本情報
生誕 (1944-02-05) 1944年2月5日(82歳)
日本の旗 日本東京都
学歴 国立音楽大学
ジャンル クラシック音楽全般
職業 作曲・編曲家、指揮者、音楽プロデューサー、元国立音楽大学准教授
活動期間 1975年 -

中島 良史(なかじま よしふみ、1944年2月5日 - )は、日本音楽家作曲家編曲家指揮者音楽プロデューサー、元国立音楽大学准教授[1]東京都出身、国立音楽大学作曲科卒業、同専攻科修了[2]

「国際音楽祭ヤング・プラハ」創設者の一人で、1992年以来21年間にわたり日本代表を務め[3]、チェコ屈指の音楽祭として確立させた[4]ことで知られる。

幼少期から学生時代

1944年昭和19年2月5日東京都に生まれる。1945年、戦火を避けるため母とともに福島県岩瀬郡桙衝村(現・須賀川市長沼町)へ疎開。父は茨城県内の駐屯地で終戦を迎えた。1947年に帰京し、三鷹町(現・三鷹市)に居住[5]戦後混乱期の社会情勢を目の当たりにしながら幼少期を過ごす。

音楽への関心は、蓄音機で聴いたクラシック音楽から始まり[5]三鷹町立第二小学校時代には同級生と「音楽新聞」を制作・配布[5]するなど、早くから音楽に親しんだ。

1955年、紙で模した鍵盤で練習していた中島を「音楽好き」と早合点した父の判断により、 開校間もない国立音楽大学附属小学校の5年次に編入[1]。後に『窓ぎわのトットちゃん』で知られる小林宗作からリトミック教育を受けた。 国立音楽大学創立者の中館耕蔵有馬大五郎らのもとで、在京オーケストラと頻繁に共演していた同校の児童合唱団に参加し、ショスタコーヴィチ《森の歌》ローゼンシュトック指揮によるマーラー《交響曲第3番》や、 オルフ《カルミナ・ブラーナ》の演奏に携わった。これらの体験が音楽家を志す決定的な契機となったという。

この頃、独学で作曲の試みを始める。 音楽を職業とする進路には両親の反対があったが、幼少期から指導を受けていた有馬大五郎の熱心な説得もあり、 国立音楽大学附属中学校・高等学校へ進学。後年、ザ・ドリフターズで知られる「ちょっとだけよ」などを連夜歓楽街で演奏した経験を通じ、当時の大衆文化の一端にも触れたという。

1962年、特待生に認定され国立音楽大学作曲学科に入学[1]。同期には2歳年長のジャズピアニスト山下洋輔らがいた。在学中から放送関係の仕事に従事し、1964年、渋谷に開設されたライヴハウス「ジャンジャン」の音楽監督に就任。歌手の瀬間千恵、俳優の林隆三らとともに前衛シャンソンの分野で活動した。 オペラ2作などを作曲し、1966年、最優秀者に贈られる有馬賞を受賞して卒業。その後、専攻科を修了し、母校への貢献を志して国立音楽大学の教職に就く[1]

指揮者としてデビュー

大学での指導の傍ら、かねてからの念願であった指揮者としてのデビューを志し、 28歳で指揮者界の重鎮渡邉暁雄に師事を願い出る。渡邊からは指揮者という職業の厳しさを説かれ一度は諭されるが、強い意思を示し続けた結果、入門を許された。 この頃、日本フィルハーモニー交響楽団を皮切りに、二期会藤原歌劇団の現場で研鑽を積んだ[6]ほか、 1973年には、民音コンクール(現・東京国際指揮者コンクール)において斎藤秀雄に見出され、桐朋学園大学指揮研究室にも籍を置いた。

1975年、東京都交響楽団を指揮してデビュー[6]。恩師・有馬大五郎の勧めに従い《カルミナ・ブラーナ》をメインに取り上げた。同曲の演奏はこのころまだ日本では4回目であり、同時に日本人指揮者として初めて同作品を指揮した人物となった[7]。この時期、京都市交響楽団から準指揮者就任の打診を受けたが、経済的事情により辞退[8]

1977年、初めてヨーロッパを訪れ、ザルツブルク・モーツァルテウム大学の夏期講習でオトマール・スウィトナーと知遇を得[5]、その音楽性を高く評価された[6]ほか、帰国後はセルジュ・チェリビダッケの講習を聴講し、これらの経験が自らの音楽観の確信に繋がったという。

1983年、シューマンのオラトリオ《ファウストからの情景》を日本人初演(東京都交響楽団[9]し、現在でも中島はこの作品を指揮した唯一の日本人指揮者であるとされる。1980年代は、山下洋輔とのジャンル横断的な企画[10]や、 大阪フィルハーモニー交響楽団で多くの独自企画[11]など、作曲・編曲の技術を活かしたプロデュース活動を展開。

国際交流と「ヤング・プラハ」設立

1989年、ベルリンの壁崩壊後、ポーランドの古都クラクフの国立合唱団(カペラ・クラコヴィエンシス)を日本に招聘する[12][13]。全国ツアーを成功させ[14]、以後、同地との継続的な音楽交流が始まる。1990年にはベートーヴェン《第九交響曲》ワルシャワ公演を指揮し成功に導いた[12][15]ほか、クラクフ国際音楽祭にも度々招聘された[16]。1996年には、武満徹の急逝を受け追悼コンサートを実施するなど東欧における日本音楽の紹介にも努めた。

1992年、スメタナ弦楽四重奏団の元メンバーらとともに、 若手演奏家の育成を目的とした音楽祭「国際音楽祭ヤング・プラハ」を創設、21年間に渡り日本代表を務めた[3]。同音楽祭は、体制転換後の経済的困難に直面していたチェコにおいて、文化庁企業メセナ協議会、民間企業の支援を取り付ける形で運営され[5]、地域の合唱団や青少年オーケストラも参加し、チェコ各地やドイツで公演を行った[3]ヴァーツラフ・ハヴェル大統領夫妻や体操選手ヴェラ・チャスラフスカらも顧問に名を連ね、35カ国から延べ1000人以上の若手音楽家を輩出[3]した。

2012年、これらの功績が評価され、日本人として4人目となるチェコ政府勲章「ボヘミア芸術の友章」を受章した[4]

主要な受賞歴

エピソード

主要な作品

脚注

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