延享2年(1745年)9月13日[2][3]、8代藩主・中川久貞の長男として[2]、岡城で誕生した[2]。母は側室の北条氏[2]。幼名は千助[2]。
しかし出生時より虚弱で、幼少時より眼疾があった[2]。このため、久賢が出生したことは幕府に届けられなかった[2]。久賢は寛延4年(1751年)に上方で療養することとし[4]、岡を出て伏見屋敷に移った[2]。高名な眼科医の診察を仰いだが、その功なく視力を失ってしまった[2]。
父による追悼文によれば、久賢は聡明で温柔な人物で[2]、俳諧・連句や楽器をたしなみ能を愛好する才人であった[2]。眼病のために書物を学んだことがないにもかかわらず、文字の形を指で描いて示すという出来事もあったという[2]。
宝暦11年(1761年)より江戸に移り、芝屋敷に滞在した[4]。明和2年(1765年)4月20日[1][2]、江戸において[2]21歳で死去した[1][2]。貝塚青松寺(現在の東京都港区愛宕)に葬られた[2]。
久賢が死去すると、岡藩ははじめて久賢が出生していたことを幕府に届け出た[2]。
久賢死後の明和5年(1768年)2月4日、弟の三郎(のち中川久徳)が嫡子として幕府に届け出られた[3]。