中川氏
日本の氏族
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歴史
清和源氏の源頼光の末裔と称する[2]。中川氏の発祥は定かではなく、『寛政重修諸家譜』に「摂津国多田源氏、左衛門尉清村が末葉なり」とされている。
建武年間、摂津国豊島郡中川村に住まう源兵庫頭清深が、中川を称したことが中川氏の直接の祖とされる。中川清村の代に、常陸国の国人で、桓武平氏良文流を称する高山重利の次男・重清が清村に仕えた。嫡男清照を失った清村は、重清を娘婿に迎えた。重清の子が、戦国大名となった中川清秀[1]である。
清秀は池田勝正や荒木村重に属し、彼らと共に織田信長に仕えて4万400石(12万石とも)を知行する大名となり、信長の横死後は豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳の戦いにおいて、近江国大岩山で奮戦したものの戦死した。
天正13年(1585年)、その子秀政は秀吉より1万石加増の13万石とされた上播磨国三木を与えられた。その後、秀政が朝鮮の役の際の鷹狩中に横死し、戦闘中ではない横死は本来は改易のところ、父である中川清秀の賤ヶ岳における忠義に免じて、中川氏は半知での存続が許された
文禄3年(1594年)、秀政の弟・秀成は豊後国岡7万400石に移封された[1][2]。
関ヶ原の戦いにおいて、秀成は東軍に付いて領知を安堵され、江戸時代全期を通じて中川氏による岡領有が続いた(岡藩主)[1]。
明治維新後に家督した最期の藩主中川久成は、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で岡藩知事に転じ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた[3]。
廃藩置県の際に定められた家禄は5240石[4][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、14万3670円65銭(華族受給者中46位)[6]。明治前期に久成の住居は東京市芝区南佐久間町にあった[7]。
明治17年(1884年)の華族令の施行に伴い、旧中藩知事[注釈 2]として伯爵家に列した[9]。浅野氏からの養子の中川久任伯爵は国光生命保険相互会社社長や貴族院議員を務めている[10]。
織田氏庶流の中川氏
織田氏の庶流である。中川忠勝は織田信雄に仕え、後に豊臣秀吉の馬廻りとなった。慶長5年(1600年)7月2日、会津征伐のため徳川家康のもと、浅野幸長、福島正則、黒田長政らとともに江戸城へ入り、その後小山へ随行した後、関ヶ原の戦いの本戦において首級を挙げた。戦後は美濃国可児郡・羽栗郡で3000石を領して旗本となり使番となった。大坂の陣にも従軍した。寛永5年(1628年)に山田奉行となり、従五位下・伊勢守に叙せられた。
忠勝(伊勢守・半左衛門)-光重(半左衛門)-重勝(半左衛門)-成慶(伊勢守・喜左衛門)-忠利(求馬)-忠英(右膳)-長泰(半左衛門)-忠明(丑之助)-監物-甲午郎
甲午郎の代に明治維新となり、明治2年(1869年)版籍奉還となった。
門間陣屋
村の支配は、羽栗郡南船原村(岐阜県羽島郡笠松町)に門間陣屋を構え、羽栗郡の知行所を船原方、可児郡の知行所を伊香方と呼んだ。伊香方へは、年に数回役人を派遣した。遺構は残っていないが領主旗本中川氏知行所跡の標柱がある。
中川氏の知行所
- 美濃国
- 羽栗郡 森村(420石6斗4升2合4勺2才6撮)・町屋村(91石0斗9升0合1勺4才1撮)・坂丸村(75石9斗5升9合9勺9才9撮)・北船原村(322石1斗3升1合8勺0才5撮)・南船原村(464石9斗5升3合6勺1才3撮)・町屋村(91石0斗9升0合1勺4才1撮)
- 可児郡 村木村(371石5斗1升5合0勺15才撮)・乗里村(62石1斗2升5合0勺0才0撮)・下田尻村(95石4斗0升3合0勺0才0撮)・伊川村(432石3斗9升0合8勺0才8撮)・山岸村(345石7斗9升9合1勺9才4撮)・小作村(134石8斗9升1合9勺9才8撮)