初めは織田信雄に仕え、後に豊臣秀吉の馬廻りとなった。
慶長5年(1600年)7月2日、会津征伐のため家康のもと、浅野幸長、福島正則、黒田長政らとともに江戸城へ入り[3]、その後小山へ随行した後、関ヶ原の戦いの本戦において首級を挙げた[1]。戦後は美濃国可児郡・羽栗郡で3000石を領し、旗本となり、大坂の陣にも従軍した。寛永5年(1628年)に山田奉行となり、従五位下・伊勢守に叙せられた。
寛永6年(1629年)9月15日、伊勢国山田で死去[1]。
- 美濃国
- 羽栗郡 森村(420石6斗4升2合4勺2才6撮)・町屋村(91石0斗9升0合1勺4才1撮)・坂丸村(75石9斗5升9合9勺9才9撮)・北船原村(322石1斗3升1合8勺0才5撮)・南船原村(464石9斗5升3合6勺1才3撮)・町屋村(91石0斗9升0合1勺4才1撮)
- 可児郡 村木村(371石5斗1升5合0勺15才撮)・乗里村(62石1斗2升5合0勺0才0撮)・下田尻村(95石4斗0升3合0勺0才0撮)・伊川村(432石3斗9升0合8勺0才8撮)・山岸村(345石7斗9升9合1勺9才4撮)・小作村(134石8斗9升1合9勺9才8撮)
村の支配は、羽栗郡南船原村(岐阜県羽島郡笠松町)に陣屋を構え、羽栗郡の知行所を船原方、可児郡の知行所を伊香方と呼んだ。伊香方へは、年に数回役人を派遣した。